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134.茶堂のいわれ
 昔、日吉村にたいへんな長者が住んでいました。この長者は、長年苦労してためた金銀財宝が、兵火にかかったり、人に盗まれたりするようなことがあってはと、日夜頭を痛めていました。あれこれと考え悩んだ末、日吉山のふもと(姫坂神社の裏山だとか、観音寺(臨済宗)の近くの山ろくだとか、いろいろにいわれています。)に隠すことに決めました。ある暗やみの夜、つづらに金銀財宝をいっぱい詰めた長者は、正直者の下男を呼んで、「これから日吉山のふもとへ、このつづらを隠しに行こうと思うからお前も一緒に手伝ってくれ。」と言いつけました。長者はちょうちんをたずさえ、つづらを積んだ馬の手綱を引っぱって先頭にたち、下男は、そのあとをくわをかついで、ぽとりぽとりとついて行きました。目的の日吉山のふもとで、隠すのにもっとも都合のよさそうな所を選んで、下男と二人で深々と穴を掘り、つづらを埋めて土をかぶせました。帰りは逆に下男に馬の手綱を持たせましたが、長者は、『いくら正直者といっても、下男のやつが手にするかもしれない。下男が手にしないまでも、ふとしたはずみで、だれかに話すようなことがあっては大変だ。』と心配になってきました。道が川にさしかかった所(観音寺山ろくの下の橋だという説もありますが、はっきりとしたことはいえません。)で、長者は、刀を上段に構えて、下男の肩先深く切り付けました。何の罪とがもない下男は、瞬間「あっ」と一声あげたかと思うと、うらめしげに長者をにらみつけながら、水中に没しました。それからというもの、長者は、毎日下男の亡霊につきまとわれ、毎夜ひどくうなされ、あげくの果て、病の床につきもだえ苦しみました。そのうち、家族の者もことごとくひどい病気にかかり、なかには死ぬる者まで出てきました。自分が下男を殺したたたりであるに違いないと悟った長者は、ある日、近くの寺の住職を呼んで、それまでの出来事を一部始終話してざんげしました。住職は、罪滅ぼしのために、お堂を建て、下男の供養をするように勧めました。さっそく下男を殺しに近くに、お堂を建てて仏像を納め、自ら髪を切って仏門に入り、日夜下男の霊を供養しました。長者は、日増しに健康を取りもどし、やがて、元のような元気な体になりました。ちょうど、お堂のある所が、四国八十八か所の札所の道しるべのある所に当たっていたので、更に自己の過去の罪の大きかったことを痛感し、長者は家族の者と協力して、お堂でお茶をわかし、道行くお遍路さんに接待しました。また、貧しい哀れな人たちのために、お金や品物も分け与えました。そして、それ以後ずっと下男のめい福を祈って、一生を過ごしました。
 茶堂は、今はありませんが、明治のはじめころまではあったそうです。この茶堂のあった所を、土地の人々は俗に『茶堂』と呼び、それが今もって、地名になっているわけです。(最近は町名変更により北日吉町・宮下町といわれます。)茶堂のあった所は、食料品店、小林広男氏宅の前の川のあたりではなかろうかといわれています。また、お茶をわかした青銅の釜と、お堂に納めていたといわれる仏像は、大正町三丁目の土岐良子氏方に大事に保存されています。茶釜に書かれている文字は、摩滅していて見えにくいところもありますが、文化11年(1814)申戌年6月(□の部分は、はっきりしていませんが、干支から計算して、『化』であると考えられます。)と書かれており、今から約180年前に当たることになります。
 茶堂の伝説に出てくる被害者については、下女だとか、平常、長者の家に出入りしている者の中で、最も信用のあった近所の男の人だとか、その他いろいろにいわれています。しかし、いずれにしろ、結局は、長者が金のとりこになって、誠実な人を殺害し、その罪悪に苦しめられ、当人や家族の者が罪滅ぼしのため、茶堂を建立して霊を弔うとともに、道行く人にお茶を接待したというのが本筋と見てよいかと思います。伝説というものは、歴史と異なり、だれ語るともなしに、また、いつとはなしに、何十年、何百年も語り伝えられたものです。時代の経過とともに、多少の違いが出てきてもおかしくないと思われますので、ここでは余りせん索しないで、この程度にとどめます。
 
所在地:今治市宮下町〜北日吉町
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135.鯨山と馬越の由来
 馬越の田んぼの中にこんもりと茂った小山があります。この付近は昔は入江になっていて、潮が満ちた時は、ちょうど鯨が潮を吹いているように見えたそうで、だれいうとなしに鯨山(鯨が丘とか鯨岡ともいいます。)と名付けるようになったとか、また馬越という地名の起こりは、潮が満ちた時に、人々が馬に乗って越えたからだといわれています。馬越の地名は、徳島県美馬郡半田町の山地にもあり、昔は、交通様式としてどことも馬が利用されていたようです。
 鯨山やその近辺に昔の貝がらがでてくることがあり、このあたりが昔は海であったという名残をとどめています。なお、鯨山は、前方後円墳(国造乎致命のものではないかといわれています。)としても有名です。

 
所在地:今治市馬越
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136.桜井の石風呂の由来
  今から3百数十年前のことです。この頃、身分の高い人が難病にかゝると、櫓も櫂もない粗末な小舟に乗せて、暗闇の夜、人目を忍んでそっと海に流すという悪い風習がありました。ところで、ある高貴なお姫様が難病に罹り、都で長年、生活をともにした身内の人と、涙ながらの別れを告げなければならないことになりました。波間に漂うこと数日、流された時に積んだわずかばかりというところまできました。ところが、幸運にもこのお姫様は、潮流に乗って、この桜井の浦手の浜に漂着し、この地方の開拓者長野孫兵衛(河野氏の一族といわれ天正三年−1585−小早川勢との戦いに敗れ農民になっています。「孫兵衛作」は彼の開拓に因んだ地名として有名で、後世、村人たちにその徳を慕われ「細野神社」として祭られています。)によって救われました。お姫様は、孫兵衛の勧めによって、自然の洞窟内でしだを焼いてもらい、洞窟内で体を暖め、潮水でひたした石の上に坐って治療につとめました。お姫様の病気は、日増しに快方に向かい、何か月か後に完治しました。お姫様は、孫兵衛の御恩を厚く感じて、その後の生涯を、孫兵衛の側近として仕えたということです。(異説もあります。)この桜井の石風呂の由来を、この時のお姫様の物語から始まると言う説もありますが、起源については諸説粉々としており、弘法大師が発見したとか(石風呂は、歴史の古い自然の洞窟を利用したものと、これを模倣した比較的時代の新しい石と、煉瓦で人工的に造ったものとに分けることが出来ると思いますが、前者の石風呂については、桜井の石風呂に限らず、弘法大師が創設したという伝説を有するものが多いようです。なお、桜井の石風呂については、弘法大師以前に創設されたのではないかという異説もあります。)鎌倉時代に、平家の落武者が、療養したのに始まるとか、いろいろ言われています。最後に参考までに最近の桜井の石風呂について、ごく簡単に付記しておきます。ここの石風呂は洞窟内でしだを燃やして熱し、火が消えかゝった頃、潮水でぬらした石の上に筵をかぶせ、その筵からゆらめきたつ蒸気と、洞窟内の蒸気で発汗させるという、所謂蒸し風呂で、西洋の乾燥浴の一種であるサウナに似たところがあり、万病に著効であると言われています。丁度、近くに海水浴場をひかえているので、このあたりは夏のバカンスを味わう老若男女で夏は賑やかですが、この石風呂は、老人の利用が多いようです。こういった石風呂は最近経営がおもわしくなく、廃止されたところもぼつぼつありますが、桜井の石風呂はあいかわらず繁盛しているようです。
 
所在地:今治市桜井
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137.馬島の檜垣姓の由来
 昔、今治藩の殿様が釣りを楽しむため、船で今治沖へ出ていました。そしたら、天候が急に変り、嵐となり、船が流され、馬島の神根の鼻へ打ち上げられてしまいました。それを塩見家の先祖のある豪傑男がお助け申し上げ、家へお連れしててい重にもてなしました。殿様はたいそう喜ばれ、「殿の命の恩人じゃ、何でもそち(おまえ)の願いをかなえてやるから遠慮なく申せ。」と言われました。男は恐縮してしまい、力持ちに似合わず、恥ずかしそうにして畳の縁のわらをむしるばかりで何もよう答えません。そしたら、殿様は「ぎょうさん遠慮しておる様子だが、この島をそちにやろう。」と言われました。男は「とんでもございません。わたしごとき身分の者が、お殿様のご領地をいただいたりすることは出来ません。恐れながらお言葉に甘えて一つだけお頼み申し上げます。何さま、私ども塩見家一軒だけではさみしうてなりません。連れの者をお呼びいただければ幸せです。よろしくお願い申し上げます。」と頼みごとを申し上げました。殿様は「そんなことはお安いことだ。」と言われ、さっそく大浜から檜垣姓の者を馬島へ呼びよせました。
 そんなわけで、馬島には塩見姓と檜垣姓の子孫が多いということです。
 
所在地:今治市馬島
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138.岩戸漁法の由来
 昔、小島に一人の白髪の気品の高い老人が大浜の八幡神社に参詣した帰りに立ち寄りました。里人は、この老人をてい重にもてなしました。何日かして、老人はある漁師に大三島の大山祇神社に参詣したいから、舟を出して連れて行ってくれるように頼みました。(別に、大浜の八幡神社に参拝した旅僧が、大浜の浜辺に出て、漁師に大三島に連れて行ってくれるように頼んだという説もあります。)漁師は「わたしも平素からお参りしたいと思っていたから、ちょうどよろしうございます。お供しましょう。」と快く承諾し、老人を舟に乗せて大三島まで案内しました。大山祇神社に参拝した老人は、別れぎわに「いろいろ親切にしてもらったのに、お金も何ももちあわせておらず、何のお礼もできません。申し訳ありません。」とわびました。人のよい漁師は、少しもいやな顔をせず、「何の心配がいりましょう。喜んでいただけるだけでうれしいです。」と笑顔で答えました。老人は漁師に「あなたは、本当によく出来た方だ。それではお礼に魚のよく取れる方法を教えて進ぜよう。闇夜に小島の海岸の岩のすき間でたい松をたくと魚が寄って来て、沢山取れるでしょう。是非やってみなさい。」と魚の取り方を教えました。
 翌日、漁師がさっそく教えてもらったようにすると、老人の言ったとおり、思う存分魚が取れました。里人たちは、この漁法を俗に『岩戸漁法』と呼びました。そして、先の漁法を教えてくれたこの老人こそ大山積神に違いないとうわさしあい、その徳をいつまでも慕いました。
 小島、馬島等では、この岩戸漁法を応用して、鉄の網の中でたい松をたき、舟の真ん中に突き出して取る『たき寄せ漁法』が行われ、沢山の漁獲をあげています。最近はたい松に代わって、バッテリーを利用していますが、瀬戸の海の夜景を飾るにふさわしいものです。『岩戸漁法』や『たき寄せ漁法』は、潮の流れに群をなしてくる魚を火のあかりで集めて取るやり方で、この地方特有の珍しい漁法とされています。
 
所在地:今治市来島小島
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139.蛸釣り陶器のいわれ
 昔、来島海峡の近くの唐津崎の沖合から、芸術品にふさわしい優雅な青磁や白泥の陶器が、よく引き上げられました。これは約140年ばかり前の、文政10年(1827)の夏に、来島の一漁夫が蛸を釣り上げたところ、一個の陶器を抱いて上がったことから、古老のいい伝えを耳にし、蛸の吸纒力にヒントをえて、蛸の足に細い縄と適当な錘をつけて、海中の陶器を釣り上げたことにはじまると言われています。その後、他の漁夫もこれに見習って、いろいろ変った陶器を釣り上げました。このようなことから、人々はこれらの陶器を、俗に、蛸釣り陶器と言っています。−大正の終わりから昭和のはじめにかけて、潜水夫によって大量に拾い上げられ、今は殆どなくなった様子です。−ところで、この陶器について、次のような面白いいい伝えが残っています。
 北野の大茶会(天正15年−1587−)があってから、十年ほど経た慶長のはじめ(慶長元年−1596〜同3年−1598−)に、茶人としても有名であった関白豊臣秀吉の命を受けた家臣織田有楽斎が、喫茶用の陶器を、全国に派遣されて集めたことがありました。事情があって九州地方は有楽斎の家来の上田藤右衛門が、その任に当たりました。藤右衛門は朝鮮から帰化した陶工をはじめ、九州各地の窯元に命じて、新しい造形感覚を求めた素晴らしい茶器を、いくらも焼かせました。ある時、この九州各地で製造されたものや、明や朝鮮から取り入れたという珍品などを、五万石積みの大船に満載して、大阪をめざして帰る途中、斎灘で折り悪しく暴風雨にあい、今にも転覆しそうな状態になりました。そこで、致し方なく乗組員の必至の努力によって、宮崎の鼻にある唐津の磯に避難しました。陸に上がった藤右衛門が、とある百姓家に泊めてもらって、風雨が収まるのを待っていたところ、たまたま秀吉が病で亡くなったという知らせが伝わりました。腹悪しき船長は、これを機会に、藤右衛門が陸に上がっている隙を狙って、めぼしい品を盗み、船を沈めて、いずことなく消え去りました。責任を感じた藤右衛門は、岩の上で割腹しました。時に慶長3年(1598)十月九日でした。里人は、その心情を憐み、その霊を慰めるため、小さい祠を建立して鄭重にお祭りし、唐津明神(加羅津崎神社ともいいます。)と称しました。現在、近くの宮崎神社(御祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊になっています。)に合祀されています。唐津明神の起源については、西日本で焼物のことを、一般に唐津物といっているところからきたのではないかと思われます。また、藤右衛門が割腹した場所は、唐津崎とか、唐津の磯とかいわれ、僅かにその名残をとどめています。
 
所在地:今治市波方町宮崎
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140.桜井のわん舟の由来
 桜井の漆器は、文化文政(1804〜1829)のころ、和歌山県海南市黒江から、行商人が漆器を持ち帰って好評を博したのがきっかけで、天保年間(1830〜1843)に桜井の行商人月原右衛門の招きで、西条の蒔絵師(金銀の粉で漆器の表面に絵を書く。)茂平という人が製造したのがはじまりだとか、大三島の大工の月原紋左衛門が桜井の網敷天満宮で休んでいた職人を見付けて作らせたのがその起源だとか、その他いろいろにいわれています。そのうち桜井地区の漆器の製造が盛んになると、遠く九州、中国、近畿地方にまで、その販路が広がりました。桜井(国分、古国分を除く。)が天領であった関係もあって、紀州は御三家の一つであったことから、徳川家の御威光を借り、「紀州の大納言家のご産物をひろめに参上しました。」と言って宣伝し、その地方の人々の心をひきつけて販路の拡張に成功しています。これらの漆器行商の帆船は、わんをたくさん積んでいたので、人々はわん舟と呼び、行商人のことをわん屋さんといいました。また、この漆器販売の方法が盆・暮払いの半期払いの特殊な販売方法を用いており、現在の月賦販売の源はここにあるとされています。桜井の人が月賦商社で多く成功しているのも、このような伝統からきているといえそうです。
 ところで、このわん舟の航海は、内海とはいえ、航海術の進んでいない当時としては、大変なことで、船出する人は、家族と水さかずきをかわして、家族総出の見送りを受けて旅立ったといわれています。航海の途中、大暴風雨で帆柱が折れ、積み荷が潮をかぶったとか、なかには積み荷を海中に投げ捨てて命からがら港に避難したとか。ずいぶん危険な目にあった話が残っています。しかし、怪我の功名で、次のようなおもしろい話が残っています。
 昔、国分に天屋(漆器作りの方は「マル登」といい、商店の方を「天屋」といったそうです。)という商店がありました。いつものように漆器を積んで、九州の博多に向かっている時、豊後灘で嵐にあい、わん舟が傷んでしまったので、やむなく宇和島の港に避難しました。天屋は、ここで漆器を売ることにしました。「わしは桜井の天屋という者だが、安うしとくから買うてくれんかい。」と言って売って歩きました。漆器が余り安く手に入るので、土地の人々は、『てんやわんや』だとしゃれを言いながら、我れ勝ちに争って買い求めました。国分の阿部常由さんは、この天屋の子孫だといわれます。桜井の河口には、当時の漆器倉庫があり、わん舟が多く出入りしたそうです。
 
所在地:今治市桜井
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141.鶏島(福島)のいわれ
  越智郡大三島町浦戸に、小さな島のわりにはまるっこくでんと腰を下した無人島があります。鶏島とか、福島といわれています。
 昔、中国(呉の国)から貢物である金銀財宝を積んだ船が来朝し、このあたりを航行中、もっとも立派な宝といわれた置き物の金鶏が突如として飛びたち、この鶏島の中に姿を隠してしまいます。船長以下全船員が、この島に下りて必死になって金鶏を捜しましたが、遂にその姿を見ることが出来ませんでした。
 その後、毎年元旦になると、コケコーローと時を告げるようになりました。−もっとも、せちがらい世の中になってきた昨今では、金鶏の声をとんと聞くことが出来なくなりましたが………−
 この話は、「古蹟誌」という本に出ています。毎年金鶏が元旦に時を告げるといった金鶏伝説は、既に紹介した上徳の大岩をはじめ、全国的に分布しています。
 なお、この鶏島は、神代の昔、木江(広島県豊田郡にあります。)と浦戸との間で、所属をめぐって話しあいがつかずに、ひっぱりあいをして決めたという話もあります。つまり、鶏島に木の江側が、鉄の鎖を浦戸側は、かずらで編んだ綱をそれぞれまきつけて、ひっぱりあったところ、木の江側の鎖が切れ、浦戸側のものになったということです。
 
所在地:今治市大三島町浦戸
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142.壮大な今治藩主の墓
 今治市古国分の古国分山(約30メートル、寺山ともいう)に江戸時代の今治藩主の初代久松定房(1604〜1676、享年72歳)、三代同定陳(1667〜1702、享年35歳)、四代同定基(1686〜1759、享年73歳)の墓所があります。−通称殿様のお墓とか殿様墓と呼んでいます。−久松氏の先祖は菅原道真(845〜903、平安時代前期の学者、政治家)から出ているといわれています。−家紋が久松氏と菅原氏と同じ星梅鉢になっています。−定房の祖父定俊(愛知県西部の知多半島の基部にある知多の阿古屋城主)は徳川家康が生まれて間もなく離別し、実家の水野家に帰っていた家康の生母をめとって、三男四女をもうけました。三男の定勝は家康の異父弟、義兄弟に当たることになり、特別に松平氏を名乗ってもよいことになっていました。また定房の兄定行が初代松山藩主であったこと、今治藩主二代定勝の長男定直(今治藩主三代定陳の兄)が松山藩主四代を継いでいること等から、今治藩主と松山藩主は親戚関係でもありました。今治城を築いた藤堂高虎が慶長13年(1608)、伊勢(現在の三重県)安濃津(現在の津市)へ移転し、藤堂高吉が今治城を預かりましたが、その後を受けて定房が寛永12年(1635)伊勢長島六千石から四万石(三代定陳の時三万五千石となる)で、今治藩主として入城しました。それから十代定法まで久松家が今治藩主として藩政を行ってきました。初代、三代、四代の三人の藩主の墓地が、唐子浜の近くの国道196号線沿いに入口があり、以前は二本の笠松がありましたが、今は枯れて代わりに山ももが植えられています。六十六の石段を上がると、上は1785平方メートル余の広い台地になっており、中央に初代定房、並んで左側に三代定陳、右側(初代三代の少し前面になる)に四代定基と巨大な三基の宝篋塔形の墓石(高さ約3.6メートル)が瓦葺白壁の塀に囲まれて建っています。また小砂利を敷いた参道の両側に華麗な石灯籠が並んでいます。(塀の中の石灯籠を併せて六十七基あります。)それぞれの墓石に次のような戒名、没年月日が鮮明に彫りこまれています。なお、左右後はいずれも星梅鉢の家紋になっています。

○初代定房
 延寶四丙辰天
寛相院殿前拾遺補闕憲譽安心大居士
 六月廿八日

○三代定陳
 元禄十五年壬午歳
本智院殿前駿州史躰譽性安實恵大居士
 九月初六日

○四代定基
 寶暦九巳卯年
 本國院殿 従五位下 前采女令 天譽相覺實仙大居士
 閏七月十三日

 この墓所は江戸時代前期のものとして代表的な遺構とされ、昭和三十四年(1959)に県指定の史跡とされています。
 今治市の「史跡名所の小路」の説明の立札に「久松家三〇〇年(厳密に言えば236年)は、平和に満ち政治に心を注ぎ産業の発展に努力した。江島為信、河上安固を抜擢して堅実な藩政の基礎を作った。初期数代の藩主の治績はよく知られることである。」とあり、ここに祭られている三人の藩主の功績は大きいものがあります。三基の壮大な墓石に時の権力の威容を表すとともに、江戸、明治、大正、昭和、平成と時の流れを静かに見守りながら、風雪に耐えて鎮座しています。
 霊安かれと冥福を祈るとともに、家運隆昌、家内安全等を祈願する人々の参詣者が数多く見られます。墓所の周辺には松や杉等の木々が茂っていて風景がさえぎられていますが、前方の展望台の付近からは眼下に唐子浜や瀬戸の海を見渡すことができます。
 
所在地:今治市古国分
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143.首立て松、地獄橋
 今治市の大新田町に「首立て松」と言って、昔、処刑された罪人の首をさらしたり、棚に並べたと言う名残りの松の木があります。この首立て松から少し離れたところに、地獄橋と言う橋があり、近くの砂浜にあった獄舎で、罪を受ける罪人は、決まってこの地獄橋を渡されたそうです。なお、この首立て松は、首から上の病気によく効くといわれ、頭のことについてお参りに来る人が多いそうで、お年寄りの中には、お百度参りをしている熱心な人もいるということです。昔は、この松の前を通る人も多かったという話をよく聞きます。今でも毎朝お線香が供えられ、供花の絶え間がないそうです。
 
所在地:今治市大新田町
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144.僧都の井戸と神宮
 神宮に井戸という小字名をもつ地域があります。この井戸にはいつのころ出来たのかはっきりしませんが、僧都の井戸という古いいわれのある井戸があります。この井戸の水は、とても質がよかったと伝えられており、近くの野間神社の神前に供えるために使われたそうです。近くに供膳というところがありますが、この供膳で神社に献上するための食物を料理する際にこの井戸水を利用したといわれています。また、昔は井戸部落の人たちをはじめ、近くの人たちも飲料用水にくんで帰る人が多かったそうです。
 井戸という地名は全国的にぼつぼつありますが、この近くでは大三島町台にあります。ここでも松山藩主が、大山祇神社参拝の時愛飲したといわれる由緒のある井戸が残っています。
 なお、話のついでに神宮という地名について少し述べておきましょう。野間神社の総産土神(人の生まれた土地を守護する神。)であった野間神社の所在地であったところから、神宮という名前がつけられたことはいうまでもないと思います。野間神社より約900メートル東北の位置に鳥居がありますこれは、正徳五年(1715)に建立されたもので、高さ約5メートル余あります。−所在地は延喜になります。昭和46年(1971)に少し東へ移動しました。−昔は、この鳥居まで領域であったそうで、先に述べた僧都の井戸とか供膳のほかに、礼拝とか山車といった神社に関係のある地名があるのはその名ごりと考えられましょう。
 
所在地:今治市神宮
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145.湊の落武者の井戸
  大浜の湊の燈台のある丘の中腹に昔の古い井戸があります。この井戸は、平家の落武者が、その昔この付近で生活をした時に使ったものだといわれています。文治元年(1185)に屋島の戦いで源氏に敗れた平家の一門の人々が壇の浦に落ちのびる時に、その残党の一部が、隠岐島(沖ノ島とも書かれ、今の魚島になります。)に身を寄せました。この時の首領が間もなく隠岐島で亡くなったので、残った者が身の安全を考えて大浜の湊に移りました。そして、ここで世事からのがれて、ひそかに隠れ住んだということで、この時の名残りがこの井戸だということです。この湊の丘は今では陸続きになっていますが、その当時はまだ島であり、身を隠すには絶好の地であったようです。
 なお、この井戸は、現在危険なため小屋を建てて出入り出来ぬようにしております。
 
所在地:今治市湊町
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146.庚申会と三尸の虫
 旧暦の六月十八日に行われる本町六丁目の神供寺(真言宗)の庚申会は、今治の夏祭の一つとして有名で、多くの参詣者が見られます。ところで、この庚申会の晩は、神供寺のある慶応町(現在の本町六、七丁目)のほか、北新町、北浜町、室屋町、美保町、別宮町等の町では、寝ないで一夜を語り明かすといった風習が昔から伝わっています。−一般に、このような風習を『庚申待』と言っています。−これには次のような変った話が残っています。
 中国からはいってきた話ですが、人間の体には『三尸の虫』(三尸虫ともいいます。)と言って、三尸の虫がいつもいるそうです。この三匹の虫は、『上尸神』と言う頭の病気を起こす黒い虫、『中尸神』と言う腹の病気を起こす青い虫、『下尸神』と言う足の病気を起こす白い虫がそれぞれいるそうです。−別に三匹とも腹の中にいるという説もあります。−そして、これらの三匹の虫が庚申会の晩に人が寝ていると、こっそりと人の爪の先から逃げ出して天に上り、天の神様である梵天帝釈にその人の平素した悪いことを告げ口するそうです。平素、全然悪いことをしていなければ告げ口はされませんが、ほとんどの人は、少しは悪いことをしているものです。だから、告げ口されてはたまりません。告げ口された人は、エンマ大王を通して地獄に追いやられたり、命を短くされたり、不幸な目に合わされるといわれます。それで、この晩は、三尸の虫に逃げ出す機会を与えないようにするため、みんなが集まって食事をしながら話し合うなどして眠らないようにします。
 この庚申待の風習については、平安時代のころは、朝廷の間でも行われたことがあるそうです。また、室町時代には、庶民の間でも行われ、江戸時代には、全国的にもかなり広まったようです。最近は、このあたりでは、ほとんどしたれましたが、それでもなかには夜遅くまで家族で語り合う所もぼつぼつあるそうです。
 なお、神供寺では、庚申の御本尊として、帝釈天の信者である『青面金剛』というご神体をお祭りしております。また、おもしおいことに、この庚申待の風習と猿田彦を祭る道祖神(道路守護の神)信仰とが結びついて、江戸時代に青面金剛や猿を刻んだ石燈や石碑を道ばたに建ててお祭りする風習も起こっており、今でもその名ごりをとどめるものがぼつぼつあります。
 徳島市南佐古三番町の天正寺(真言宗・山号を庚申山といい庚申会を行っています。)というお寺の境内には、写真のように猿の石像が祭られています。風変わりな石像ですので取り上げてみました。
 
所在地:今治市本町
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147.若者とお婆落とし
 昔、桜井にとても気の優しい若者がいました。ある朝、両親がこの若者に、おいぼれたお婆さんを車に乗せて、お婆落とし(桜井の国民休暇村の国民宿舎に通じる山腹のあたりだといわれます。)に捨てるように言いつけました。言われた通り、お婆落としの所まで連れて来たものの、若者はどうしてもお婆さんをお婆落としから落とす気にはなりません。そこで、若者はお婆さんを木陰の所へ連れて行き、「婆さん、わしは婆さんを落として来るように父さん、母さんから言われたが、どうしても大事にしてくれた優しい婆さんを捨てる気にはなれん。帰って、父さんと、母さんに思い直してくれるように、手を打ってみるから、夕方まで短気を起こさずに待っていてつかあさい。必ず連れに来るからのう。」と言いました。お婆さんは、口をそろえて「なんで、その車も一緒に捨てて帰らなんだ。その車はもういらんのじゃ。」と言いました。若者は、静かな口調で「この車は、また、父さんと母さんを捨てに行く時に使うから、置いておかにゃならん。」と答えました。わが身に降りかかってくることを忘れていた両親は、息子の言うことを聞いて、顔色を変えてあわてふためき、「婆さんはどうなっとる。どこへ捨てた。困ったことをしてしもた。」と若者をせきたててお婆落としの所へやって行きました。若者の言葉を信じていたお婆さんは、目を閉じてじっと待っていました。若者の両親は「婆さん」と声をかけるや抱きついて喜びました。若者もこのほほえましい光景を見て、頬に幾筋もの涙が伝わりました。その後、この若者一家は、代々孝養の念に厚い家として、人々からうらやましがられました。また、昔から続いていた姥捨の悪い風習も、この事があって以来、このあたりではぴったりと止んだということです。−別にこの風習は、ある賢い母親がいて、いろいろさとしたから止んだのだという人もいますが…−。
 この棄老伝説は、インドシナあたりにもあって、わが国にも古くから伝えられているとともに、日本固有のものとしても語り継がれています。有名な信濃国(今の長野県)の更級の姥捨山の伝説をはじめ、全国的にもあちこち分布しており、本県でも上浮穴郡美川村の二箆の奥山の久万山、宇摩郡新宮村の明神山等にも残っています。なお、その内容も多少の違いが見られますが、概して、孝行者が親を捨てることが出来ずに苦慮するといった筋書きのものが多いようであり、ここで述べた桜井の「お婆落とし」の伝説のように、孫が祖母のためにいろいろ手を尽くすといった例は少ないように思います。
 
所在地:今治市桜井
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148.のれんをかやと間違え、海に飛び込んだ侍
  江戸時代の終わりころ、今治藩の御納戸役に山田敬治という侍がいました。天保十三年(1842)の七日に今治藩主久松定保が大寿丸という船で江戸を出発され、今治に帰られる際、敬治はそのお供として船に乗り組みました。途中、大阪の安治川の船着場に碇泊しました。その日の夜半過ぎに用たしか涼みがてらか何かで、自分の寝床を抜け出しました。そのあとまた元の所へ帰る時に、昼間の疲れもあってか、寝ぼけて船の入口にあったのれんをかやと勘違いして飛び込んだところ、勢いあまってそのまま海中にドブンと落ち込みました。あまりにも大きな音がしたので船に乗っていた人たちは驚いて目をさまし、海中を見渡しましたが見当たりません。そこで、人々は心配し、急いで船乗りを呼んで、海中にいれて捜させました。やっとのことで敬治は引き上げてもらうことが出来ました。
 人々は、夢に苦楽は様々あるけれども、敬治のやつは思いもよらぬ危い目におうたわい。本人も驚いたことだろうと顔を見合わせて笑い合ったそうです。この話は、『今治拾遺』という書物に出ています。
 
所在地:今治市通町
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149.坂本の山びと
 近見の的場から大浜の海岸へ越える間に、坂本とか婿戻と呼ばれる浅い谷になっている所があります。今は、この谷はきれいに切り開かれていますが、昔は、木々がうっそうと茂っていて昼でも薄暗く、人々がこわがっていました。夜になると山の主がよく美しい娘さんに化けて出て、人々をずいぶん困らせました。この山の主は、人を見るとゲラゲラと笑い、その声が山々にいっぱいこだましたので、村人たちはだれいうとなしに『山びこ』と言いました。不思議なことに、だれでもこの山びこが笑うとつられて笑い出してしまします。山びこは、相手が笑い負けると、情け容赦なく、だれかれとなしに皆殺してしまいました。それで、夜遅くこの谷を越えることを村人たちは大変恐れました。ところが、小浦のある若い衆が、お盆の買物に町へ行き、あれこれと買物をしている間に、つい遅くなってしまいました。若い衆は、この谷を越えようか、どうしようかと迷いましたが、山びこなんてそんなものが出て来ることもなかろうと、思い切って通ることにしました。坂本のあたりへ来ると、案の定、後から娘さんの呼び止める声がします。若い衆は、背筋に冷や汗が流れる思いがしました。一ぱい荷をいれていたかごを、その場に投げて捨てるや、坂本を走り抜け、大浜部落めがけて逃げました。やっとのことで、ふもとの大浜で一軒の百姓屋を見つけました。家の中に飛び込むや、急いで内から戸を閉めました。山びこは「もう少しだったのに惜しいことをしたものだ。一人やりそこなったわい。」とぶつぶつ言いながら、戸をガタガタいわせて残念がりました。このことがあって以来、山びこが出るという話は聞かなくなったということです。
 
所在地:今治市近見町的場
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150.赤岩の化け物
 神宮の井戸奥から野間に出る山中に赤岩という所があります。昔、神宮の銀さんという人が、野間の親せきに建て前があるので、お米とお酒と鯛の三つ物を持って、山越えをしている途中、赤岩のあたりを通っていると、急に眠気がし出しました。そして、目の前に何か正体のはっきりしない化け物が現れました。銀さんは、もうはたまで来ているのに赤岩のあたりの山の中をうろうろするばかりで、とうとう夕方になってしまい、目的の家に着くことが出来ず、いつの間にかわが家の家の方へ足が向いていました。村人はこれは魚をねらった狸か狐のしわざではなかろうかとうわさしました。また、この野間の古屋、猿谷、平入堂のあたりは、よく化け物が出て人々を困らせたということです。最近は、このあたりは松食い虫の被害にあい、松の木が伐採されていて見はらしがよくなっていますが、以前はこの赤岩のあたりは、松の木や草がうっそうとおい茂り、昼もうっとおしいような所で、狸や狐が大入道や娘さんに化けて出るなど、人を化かすには格好の地であったようです。
 赤岩には大きな石がありますが、見方によっては、鼻や耳らしきものが見え、人間の顔のようにも見えます。昔から何か霊魂が宿っているようにいわれており、最近、近くに道路が出来ましたが、ばちが当たると恐れてだれもほかに移す人はいません。
 赤岩の百メートル余の位置に、小さい馬として有名な野間馬の放牧場があります。
 
所在地:今治市近神宮(井戸奥)
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151.ちょうちんで助かったお百姓
 神宮の井戸奥から野間に出る山中に赤岩という所があります。昔、神宮の銀さんという人が、野間の親せきに建て前があるので、お米とお酒と鯛の三つ物を持って、山越えをしている途中、赤岩のあたりを通っていると、急に眠気がし出しました。そして、目の前に何か正体のはっきりしない化け物が現れました。銀さんは、もうはたまで来ているのに赤岩のあたりの山の中をうろうろするばかりで、とうとう夕方になってしまい、目的の家に着くことが出来ず、いつの間にかわが家の家の方へ足が向いていました。村人はこれは魚をねらった狸か狐のしわざではなかろうかとうわさしました。また、この野間の古屋、猿谷、平入堂のあたりは、よく化け物が出て人々を困らせたということです。最近は、このあたりは松食い虫の被害にあい、松の木が伐採されていて見はらしがよくなっていますが、以前はこの赤岩のあたりは、松の木や草がうっそうとおい茂り、昼もうっとおしいような所で、狸や狐が大入道や娘さんに化けて出るなど、人を化かすには格好の地であったようです。
 赤岩には大きな石がありますが、見方によっては、鼻や耳らしきものが見え、人間の顔のようにも見えます。昔から何か霊魂が宿っているようにいわれており、最近、近くに道路が出来ましたが、ばちが当たると恐れてだれもほかに移す人はいません。
 赤岩の百メートル余の位置に、小さい馬として有名な野間馬の放牧場があります。
 
所在地:今治市近孫兵衛作
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152.祇園さんの奇習
 今治市祇園町一丁目の須賀神社は、ぎおん(祇園)さんとかぎよんさんといって、土地の人から親しまれ信仰されています。ところで、この祇園祭は、夏祭りの一つとして、毎年旧の六月十四日に行われますが、この祇園祭には、氏子の中に胡瓜を食べないという人がかなりいます。なかには、氏子であるという理由でもって、夏祭りに限らず、年中食べない人もいるそうです。−最近、時代の進展にともなって、こういった傾向はずっと減少していますが…−これは、胡瓜を輪切りにした形が、祇園さんの神紋に似ているという理由からきています。この祇園さんの氏子が胡瓜を食べないという風習は、今治地方に限ったものではなく、京都の祇園さんの本社の八坂神社を始め、全国各地に残っています。
 
所在地:今治市祇園町
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153.和霊さんの奇習
 祇園さんの奇習のほかに、迷信めいた奇習の一つとして、この地方に残っているものに、玉川町法界寺の和霊神社(宇和島の和霊神社より勧請したもの)の大祭(旧暦六月二十三日になっています。)に、蚊帳を吊らないという風習が残っています。これは、宇和島藩の家老兼総奉行であった山家清兵衛公頼が、三津浜の難波屋の離れ座敷で、蚊帳を吊って寝ていて、蚊帳の四隅を切られて、蚊帳ぐるみにして殺された命日が、大祭の日に当たるからだといわれています。この風習もこの地方だけのものではなく、瀬戸内地方のかなり広い範囲にわたって残っています。特に、広島県因島市では、この日を蚊帳待といって、一晩中蚊帳の中に入らず、語りあかす奇習が一部の間に残っているそうです。
 ここで述べた祇園さんと和霊さんの話は、伝説というよりも、民俗学的なものですが、風変わりな話であるので紹介してみました。
 
所在地:今治市玉川町法界寺
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154.三種のお守り
 今治市、神宮井戸の大沢謙一氏宅に、先祖から家宝(?)として「三種のお守り」(記録には「三種御守り」と書かれています。)と称して、馬の角、倉の鍵、数珠が保存されています。今は虫に喰われてありませんが、従来はこのほかに一寸八分(約五センチ)もある大粒の米もあったそうです。(現在の角、鍵、数珠のどれか一つは、米にかわって三種のお守りになったもののようです。)これらは、いずれも南蛮渡来のものだといい伝えられ、十六世紀の後半に九州の諸港に来航した南蛮人(ポルトガル人、イスパニア人)が、東南アジアの国から持ち帰ったもののようです。この三種のお守りを包んでいる布は、もう大分古びていたんでおりますが、絹であり、やはり南蛮人が商取引きの関係で、当時中国大陸から手にしていたものを、持ってきたと考えられます。これらのものが、どのようないわれがあるのかわかると、面白い伝説のネタになるのですが、そういったことについて、詳しいことがとんとわからないのが残念です。この「三種のお守り」については、厳密に言えば、伝説としての体系をとっていないのですが、ちょっと珍しいので紹介してみました。
 
所在地:今治市神宮
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