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101.蛇越しの池
 昔、この地方に大日照りが続き、稲がよれよれになりかけたことがありました。お百姓さんたちは、毎日毎日うらめしげに、お天道さんを仰いでは雨ごいをしました。特に桜井の孫兵衛作村の田んぼは水が一滴もなく、もう2、3日もすれば、すっかり稲は枯れてしまうところまできました。村人たちは、どのようにすればよいかといろいろ協議したあげく、この村にある池の樋を全部抜いてしまうことにしました。この村には、ずっと以前から1匹の大蛇が住んでいましたので、村人たちのなかには、そんなことをすると、どんなことが起こるかわからないと反対する人もいましたが、どうにも仕様がないので、許してもらって樋を全部抜いてもらうことにしました。あとで村人たちから事情を聞いた大蛇は、いたし方なく、長年住みなれていた池を出ることにしました。大蛇は泣き泣き名ごりを惜しみつつ、何度も何度も池を振り返りながら、池の東の方の小山を越えて海辺へ出て行きました。このあたりの土地が、お天気のよい日でも黒っぽく湿っているのは、その時の大蛇の涙のあとだといわれています。おかげで稲は元のように生きかえり、その年は豊作でにぎわいました。
 村人たちは、この大蛇を『龍神様』としてて重にお祭りすることにしました。この池は普通『医王池』と言いますが、この地方の多くの人たちは、『蛇越しの池』とか『蛇池』と呼んでいるようです。大蛇の跡だといわれる黒い湿地は、天然記念物の指定地になっていて、さぎ草を始め、日本でも非常に珍しい沢山の有名な湿地植物が生えており、非常に貴重なものとされています。
 
所在地:今治市孫兵衛作
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102.比岐島の大蛇
 昔、玉川町の法界寺に利右衛門という農民がいました。利右衛門はふとしたことで、打首にされるほどの大罪を犯してしまいました。そこで、利右衛門は、当時人も踏み分けることの出来ないくらい草ばかりおい茂り、樹木が一本も生えていない比岐島に、松の木を一万本植え、島を開拓してみせるから、命だけは助けてくれるように、藩主をはじめその道の役人に、何度も何度も懇願しました。やっとのことで許されて島に渡った利右衛門は、それこそ死にもの狂いになって働き、三年がけで造林をなし遂げました。助命された利右衛門は、しばらく島にいて引きあげました。それから後は、だれも島に渡る者がなく、せっかくの造林も荒れ放題になったので、たまりかねた今治藩主は、御触れを出すやら、あの手この手で見守り役の募集に当たりました。その結果、誰も行き手がないのなら私が行こうと、性来、豪胆な上徳の阿部孫左衛門(大庄屋曾我部三郎衛門の次男)が、一万本を十万本にしてみせると堅い決心のもとに、三町六反歩(約3.6ヘクタール)ほどの土地を売却して島へ渡りました。人家らしい人家も無かったので、孫左衛門は島へ渡るやすぐ住宅の建築にとりかかりました。大工や左官を呼んで、いよいよ家を建てるという時に、ガサガサという音がしたかと思うと、頭が三升だる、その長さ2、3間(1間は約1,81メートル)ばかりの大蛇が棟を巻きました。大工と左官はびっくり仰天、肝を冷やしその場を逃げ去りました。そこで、孫左衛門は、衣類を脱ぎ、海に入って身を清め、上下に着替えて、勇気を出して、大蛇の前に平伏して、「あなたは、この島の主と推察します。私は、この島の見守り役として、また、開拓者としてこの島にやって来た者でございます。私のこれから行おとすることがお気に召さないのでしたら、この場を即座にお立ちのきになってください。その節には、後日祠を建て、この島の産土神としてお祭りすることをお約束いたしますから…。」と祈るような口調で申し述べました。大蛇は、孫左衛門の言うことがよくわかったのか、また、東の山の方へ、ザワザワという音をたてながら去って行きました。後日約束どおり祠を建ててこの大蛇を祭り、氏神さんとしました。この大蛇の伝説は、孫左衛門の子孫に当たる阿部仲次郎氏(今治市風早町3丁目)所蔵の古文書『当島言伝控書』―天明元年(1781)に書かれたもので、初代孫左衛門から13代目の人が、後日の控えのために記録したもの―に、かな り詳しく書かれています。
 その後もこの大蛇が出たという話が残っていますが、やはり孫左衛門の時と同じように、潮ごりをして拝むと、いずこともなく消え去ったということです。
 この地では、この大蛇のことを「長い人」「あの人」「巳さん」と言った具合に、人格化した呼び方をしている人が多く、島の主として大蛇の祠をてい重に祭っており、四季おりおりの花が飾られ、好物といわれている卵やあずき飯が供えられることが多いそうです。
 
所在地:今治市今治村(比岐島)
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103.平市島の大蛇
 浜桜井から約4キロの沖合に平市島、小平市島という無人島があります。昔、この島に大蛇が住んでいました。ここの大蛇は目はほうずきのように赤くらんらんと輝き、頭には耳があり、その背の上にはこけが生え、かきがついており、実に恐ろしい格好をしていたそうです。桜井近辺の漁師の中には、この大蛇を見太者がぼつぼついるそうで、平市島の主ではないかといわれています。また、一説には先の「101蛇越しの池」で述べた大蛇が海を渡って来たものではないかということです。現在は無人島になっていますが、太平洋戦争後、橘という人が住んでいた時分に大蛇のために食物をお供えしておくと、大蛇がいつの間にかやって来て、それを食べていたそうです。真偽のほどは別として、平市島には300年以上も経過した古い松の木があり、やはりそういったところから大蛇話を生むのにふさわしい土地であるといえそうです。
 
所在地:今治市平市島
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104.矢田の蛇池
 昔、このあたり一帯に大旱ばつが続いて、農作物が傷み、お百姓が大変困ったことがありました。とりわけ、矢田村(現在の今治市矢田)では、もうこれ以上日照りが続いては、稲が枯れてしまうところまできました。村人たちは協議のうえ、蛇池にわずかばかり残っている水を流すことにしましたが、池の主である大蛇が、水門の入口にがんと構えて、水を引かそうとしません。村人たちは、ますますひからびていく稲田と大空を眺めては、どうしたものかと、ただため息をつくばかりでした。そこで、蛇池の水門のすぐそばに田を持っていたの農民の井戸源左衛門が、まず村人の代表者として、大蛇と交渉することに話がまとまりました。源左衛門は、ありきたりのやり方では、大蛇が願いをかなえてくれないので「大蛇様、どうか水をお流しくださいませ。この願いをお聞きくださるならば、私の娘をだれか一人嫁として差し上げましょう。」と懇願しました。娘三人がともに村でも評判の美しい娘であったので、大蛇は喜んで承知しました。翌朝、驚いたことに、水田という水田は、あふれるばかり水がたたえられており、稲の葉の1つ1つが見違えるように生き生きとして、水玉さえついていました。村人たちは、小おどりして喜び、源左衛門に礼を言いました。しかし、源左衛門は、大蛇との約束が頭痛の種になり、食物がのどを通らず、毎日もだえ苦しみ、ついに病みについてしまいました。娘たちは、父親のあまりのやつれように心配をしました。長女が「何か心配ごとがあるのでしたら、打ちあけてください。私たちの出来ることなら何でもいたしましょう。」と言うので、源左衛門は、大蛇との約束の一件を残らず話しました。長女と二女の二人は、そればかりはと断りました。三女玉菊だけは、きっぱりと「お父様、村の人たちのためならば、私が大蛇のお嫁になりましょう。」とけなげにも大蛇に嫁ぐことを承諾しました。それから数日後、玉菊は、吉日を選んで、悲しむ家族や村人たちに送られて、母親の形見の鏡をしっかりと胸に抱いて、かごに乗ったまま悲しく池の底深く消えて生きました。源左衛門は、自己の軽率さを悔い、悲嘆の涙で日々を送りました。しかしその後、矢田村には水の不自由がなくなり、豊作が続いたということです。
 蛇池の堤に、大蛇のために建てられたという蛇神さん(池神さんともいいます。)という祠があるほか、池から200メートルほど離れた丘の上(矢田上一という所)にも、りっぱな供養塔と祠が建てられていて、『三女さん』の名で親しまれています。昭和8年(1933)全国的な旱ばつに見まわれた時、池ざらえをしたところ、この玉菊の鏡を見つけたということで、その後、再び池の中に沈め、池ざらえごとに鏡を祭って供養しているそうです。鏡は円鏡で、まがきに小鳥の模様が描かれており、大体鎌倉末期から室町初期のころのものではなかろうかといわれています。この池の堤に沿ってつくられている「御鏡公園」という名前もこの鏡にちなんでつけたものと思われます。
 「矢田」という地名は、大蛇と関係があるかないかは別として、有名な安珍清姫の物語が、和歌山県の同じ矢田村(現在は町村合併の結果、日高郡川辺町鏡巻になっています。)というところにあるのも興味深いとこです。
 ところで、こういった大蛇に嫁ぐといった話は、科学の発達した現在の人が考えた時には、いかにもばかげた架空のことのように思えますが、大蛇にちなんだ池や祠や伝説等があることを考えた時、その昔、この池にまつわる何かの話のネタがあったであろうと想像出来ます。余り臆測すると伝説の美しさがそこなわれてしまいますが、私はこの大蛇というのはこの地方の一有力者(大地主)だと勝手な想像をしてみました。そうすると、この一有力者が、彼の手下の農民に何かと無理難題を押しつけ、交換条件に結婚を押し迫る。そして、一方からいえば、恩義にあずかったということから、やむをえず娘がその犠牲になってしまうという筋書きになるのではないかと思います。いずれにしろ、こういった悲哀に満ちた話を、いつとはなしに、また、だれいうとなく、後世の人が話を加工し、今のような伝説となったと考えられるのではないでしょうか。
 
所在地:今治市矢田
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105.八丁の柑子さん
 今から800余年前の昔、永暦年間(1160〜1161)のことです。立花の八丁に、非常に金持ちの家がありました。この家へある夕暮れ時に一人の女の人がやって来ました。あまりよい身なりではありませんが、とても気品があり、うりざね顔で色白の美しい娘さんでした。自ら「私は常世の国(異国、この場合現在の中華人民共和国をさします。)の生まれで名は柑子と申します。どうか下女にでも使って下さい。」と懇願するので、主人は同情して使うことにしました。柑子さんは、かいがいしくよく働くのと、料理がとても上手なので、主人夫婦をはじめ家中の者から「柑子や、柑子や。」と言われ大事にされました。しかし、柑子さんは、料理をする時は人を一切近づけず、料理のこつは人に絶対話しませんでした。そこで好奇心にかられた主人夫婦は、柑子さんが料理をしているのを、ふすまのすき間からそうっとのぞき見をしました。蛇で料理に味をつけているのを見た主人夫婦は、驚きと気味の悪さにぞっとしました。主人は怒りの念を押さえることが出来ず、一刀を握るや「よくも人の忌みきらう長虫を食わせやがった。一刻も容赦は出来ぬ、不らちなやつめ、エーイ」と、その場で、無惨にも右肩深く切り下げて殺してしまいました。後で裏の竹やぶに、蛇のうろこがうず高く積み上げられているのが発見されました。―一説には、妻が味つけの秘法を知るために柑子さんに暇を与えていろいろ調べ、台所の床下から蛇の頭や骨が散乱しているのを発見し、きつく叱りつけたのがもとで、悩み苦しんだすえ自殺したともいわれています。―
 ところが、柑子さんを手討にしてから7日目に、主人がわけのわからぬ病気にかかって急死しました。続いて、妻が狂って入水し、子供たちも次から次へと病死して、半年もたたない間に一家全滅の災難にあいました。また、村人の中にもよからぬことで苦しむ者が続出しました。村人たちは、これはてき面に柑子さんのたたりだと恐れをいだき、相談の結果、『柑子女神』と言う神様にしてお宮を造って、その霊をてい重に祭って村の平和を祈ったということです。
 鎌倉時代に幕末に報告した『免田記』と言う書物によると、沢山の田を寄進されており、昔はいかに大きな社であったかがうかがわれます。柑子神社は明治41年(1908)に須佐之男命を祭ってある樟本神社に一緒にお祭りするようになり、今日に至っています。もとの柑子神社の跡は、現在織物工場が建っていますが、柱の土台になった磁石が残っており、当時の柑子の社を思わす唯一の資料になっています。

 
所在地:今治市八丁西
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106.八つに切られた龍
 世田山の南にある世田山医王院栴檀寺(真言宗 俗に、世田薬師と呼んでおります。東予市楠)に、建築、彫刻家として有名な左甚五郎の作といわれる龍があります。昔、この龍を左甚五郎が作ってからというものは、いつも夜が来るとこの龍はお寺を抜け出して、医王峠を通って、桜井の孫兵衛作にある医王池(別に孫兵衛作の蛇池とか、蛇越しの池とも言います。)まで下りて来ては水を飲みました。冬の時分はよいとしても、夏になって稲に水がいるような頃に、水を飲みほされるので百姓も大変困りました。そこで付近の百姓が相談して、この龍を八つに切って鎹で止めてしまいました。それから、龍が水を飲んで困るという話は聞かなくなりました。今でも、この龍は八つに切られたまま医王院に残っております。この龍の丈は、一間ぐらいです。この医王院から医王池を真下に見下ろすことが出来ますが、その水の色が真っ青に見えて、いかにも龍でも住んでいそうな感じを与えます。御承知のように、左甚五郎の作と言われるものは全国的にかなりありますが、左甚五郎そのものが伝説的人物で、伝記も不明のようです。したがって、この龍も製作年月は全然わからず、また、龍の名もはっきりしていません。左甚五郎が製作したものが、魂が入って動きまわったという話は、よく耳にすることと思います。
 
所在地:西条市楠〜今治市孫兵衛作
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107.うわばみ退治
 今治市宅間の九王(大西町)よりの山間に、内方という部落があります。―現在は家が12軒ですが、昔は2、3軒しかなくとても淋しい所でした。―この内方から更に5、6町奥に、古座山があります。昔、この古座山にとても長くてでっかいうわばみが住んでいました。内方の人が、うわばみを大きな木と勘違いして腰をかけ、煙草の吸い殻を落とし、煙管でポンポンと叩いたところ、ぐらぐらと大きく揺れたので、あわてふためいて命からがら逃げ帰ったことがありました。また、茸狩りや薪集めに行って、このうわばみに出会い、腰を抜かした人もぼつぼついました。ある時、このうわばみが牛の子を一飲みしたので、内方のある鉄砲撃ちの名人が撃ち殺してしまいました。ところが、この祟りがあちこちに伝わり、皆を困らせました。それで内方の人たちは、内方の山の頂に近い所に、荒神様として鄭重にお祭りしました。今、旧の9月20日には宅間の神官を招き、玉串を捧げてお祭りしています。今は見当たりませんが、従前はこの祠に『蛇を荒神としてまいすえる』と言う立札があったそうです。また、飲まれた牛の子についても、その後、うわばみがお祭りされているのにこのまゝ放っておくのは不公平だというので、別に、出雲神社内に一緒にお祭りしています。
 
所在地:今治市宅間
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108.井戸奥の大蛇
 昔、ある和霊祭の日(旧6月23日)でした。神宮の井戸の大沢四郎次という人が、井戸奥(いどのおく、土地の人は俗にいどのくと呼んでいます。)の畑へ水瓜を取りに行きました。大きな水瓜をゆぐり(藁で編んだかご)に入れて、畑で一ぷくして帰りかけると、風もないのにわさわさと言う大きな音を耳にしました。妙なことがあるものだとよこ見ると、大蛇が大きな松の木にからみ幹ごとわりわりと揺れ動いているのです。そして、四郎次さんの方を向いて、ペロリペロリと舌を出しているのです。従前、隣の岩次さんが同じ井戸の奥で大蛇に会って、2、3日床についたことがあったということを思い出し、身震いがしました。手に持っていた水瓜の入ったゆぐりと鎌をその場に放り捨てて、一目散に我が家に帰りました。その晩から四郎次さんも案の定、岩次さん同様2、3日高熱にうなされて床につきました。―この2人以外にも大蛇を見た人がいますが、いずれもあとで高熱を出し床についたということです。―しかし、四郎次さんが大蛇に出会ってから後、この大蛇を見たということを話す人はなくなりました。
 最近はこの井戸奥も、密柑畑等に開墾されていますが、以前は松の木や草が鬱蒼と茂り、昼もうっとうしいような所で、狐や狸が出て人を化かしたそうです。また、近くの裏谷池(土地の人は俗におしろ池と呼んでいます。)あたりでは、夜が来ると大入道が出て、人をたぶらかしたともいわれています。
 伝説というのは、真偽のほどは別として、何かその話を裏づける根拠になるもの、例えば、記念の木や石や塚があるものですが、時代の進展にともなって、この井戸奥のように開墾されたり、整理をされたりしてしまう例は多いことです。そして、この伝説の根拠になるものがなくなるということが、厳密に言って伝説の体裁をこわし、昔話、昔語りと言ったものに形を変えるものになったり、中には、話の種そのものを失ってしまうことにもなります。ここで述べた井戸奥の大蛇は、伝説というより、やはり、昔話、昔語りの形になっているといえそうです。
 
所在地:今治市神宮
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109.神供寺の狸
 昔、慶応町の神供寺(真言宗)に神供寺狸というたいそう利口な狸が住んでいました。この狸は女形に化けることがすごく上手だったそうです。神供寺にお墓参りに来た人が、故人であるはずの女の人の姿を見てびっくり仰天したとか、雨降りの日に神供寺の門前に、島田に結った芸者姿で、雨かさをさして現われ道行く人を誘ってはたぶらかしたとか、いろいろ変った話が残っています。
 ところで、この神供寺狸のいたずらがばれる時が来ました。毎晩、常夜燈(夜間いつもつけておく燈火)に火をともす役をしていた男の人が、ある日、注油をしていると、美しく着飾った娘が現われて、「別宮の高野山へ行こうと思うのですが、女の身1人ではとても心配です。すみませんがその馬に乗せて連れて行ってくださらないでしょうか。」とかわいい声で頼みました。気の優しい男は「私も向こうへ行く用事があるので、ちょうど都合がええです。さあさあどうぞお乗り下さい。」と快く承諾しました。男が娘をくらに乗せるため、腰を下から押し上げた時、腰にもじゃもじゃする毛のようなものに触れるのを感じました。一瞬、神供寺狸のことが頭にひらめきました。よく気をつけてみるとしっぽが見えます。男は、「ちょっとお待ちください。この馬はたいへんなあばれ馬ですので落ちるようなことがあってはいけません。ひもで体を結んでおきましょう。」と言って、なわでぐるぐる巻きにしました。神供寺狸が、わなに掛けられたと気付いた時は既に遅く、男に「よいごちそうにありついたわい。さて、これから狸じるにして食べようか。煮て食べようか。」と男におどされると、狸はぶるぶる震えながら「どうかそれだけはご勘弁ください。もう二度と女などに化けて人をたぶらかすような大それたことはしません。」と大粒の涙を流してあやまりました。男は、かわいそうに思って放してやりました。このことがあって後、神供寺狸が寺の木や墓の上にいたのを見た人はいますが、女に化けて人をだましたという話を耳にすることはなくなったそうです。
 
所在地:今治市本町
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110.東禅寺の狸
 昔、慶応町の神供寺(真言宗)に神供寺狸というたいそう利口な狸が住んでいました。この狸は女形に化けることがすごく上手だったそうです。神供寺にお墓参りに来た人が、故人であるはずの女の人の姿を見てびっくり仰天したとか、雨降りの日に神供寺の門前に、島田に結った芸者姿で、雨かさをさして現われ道行く人を誘ってはたぶらかしたとか、いろいろ変った話が残っています。
 ところで、この神供寺狸のいたずらがばれる時が来ました。毎晩、常夜燈(夜間いつもつけておく燈火)に火をともす役をしていた男の人が、ある日、注油をしていると、美しく着飾った娘が現われて、「別宮の高野山へ行こうと思うのですが、女の身1人ではとても心配です。すみませんがその馬に乗せて連れて行ってくださらないでしょうか。」とかわいい声で頼みました。気の優しい男は「私も向こうへ行く用事があるので、ちょうど都合がええです。さあさあどうぞお乗り下さい。」と快く承諾しました。男が娘をくらに乗せるため、腰を下から押し上げた時、腰にもじゃもじゃする毛のようなものに触れるのを感じました。一瞬、神供寺狸のことが頭にひらめきました。よく気をつけてみるとしっぽが見えます。男は、「ちょっとお待ちください。この馬はたいへんなあばれ馬ですので落ちるようなことがあってはいけません。ひもで体を結んでおきましょう。」と言って、なわでぐるぐる巻きにしました。神供寺狸が、わなに掛けられたと気付いた時は既に遅く、男に「よいごちそうにありついたわい。さて、これから狸じるにして食べようか。煮て食べようか。」と男におどされると、狸はぶるぶる震えながら「どうかそれだけはご勘弁ください。もう二度と女などに化けて人をたぶらかすような大それたことはしません。」と大粒の涙を流してあやまりました。男は、かわいそうに思って放してやりました。このことがあって後、神供寺狸が寺の木や墓の上にいたのを見た人はいますが、女に化けて人をだましたという話を耳にすることはなくなったそうです。
 
所在地:今治市南宝来町
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111.梅の木狸
 波止浜の仲之町に、梅の木壇十郎という狸がいました。この狸は、円蔵寺(黄檗宗)にある天神様のお使いをしていましたが、侍や娘に化けるのが得意でした。よく円蔵寺の裏山の頂から侍姿になって出てきました。また、とても頭がよく、奇知にとんでいました。ある時、ライバルの讃岐(今の香川県)の狸と腕比べをしたことがありました。梅の木狸は、実際の大名行列がやって来るのを知っていて、相手に大名行列をやって見せるからと化けくらべの挑戦を申込みました。相手の狸は、それが本物とも知らず、そっくり同じ化け方をしましたので、即座にその場で狸のしわざだと見破られ、無礼打ちにあいました。また、この梅の木狸は、よく波止浜の料理屋や酒屋へ酒を飲みに来ました。いつも通帳は持っていましたが、帰る時は決まって現金払いで、一度も付けにしたことはありませんでした。ところが、翌朝それを見ると、木の葉っぱだったそうですが、梅の木狸がやって来ると、その店は奇妙に繁盛したので、だまされたとわかっていても大歓迎をしました。
 ところで、この梅の木狸が日露戦争に従軍したということで、次のようなおもしろい話があります。大陸で日本軍がロシア軍に苦しめられ、形勢が不利になっているのを知り、多くの狸族を集めて、海を渡って従軍し、いろいろと化け戦術を使って勝利に導いたということです。なかでも、赤い服を着てロシア軍を攻撃し苦しめた話は有名で、ロシア軍が赤い服を着た兵隊をいくら撃っても、まともにまともに当たらないのに、赤い服を着た兵隊がロシア軍を撃った弾丸は、百発百中であったそうです。―日清、日露の戦争をはじめ、戦争で日本の狸が出陣し、日本軍を助けて戦果をあげた話は、この梅の木狸に限らず他にもいろいろあります。―この戦いの功によって、梅の木壇十郎という姓名を賜わり、勲章を授けられました。戦場から帰って、波止浜の仲之町の広場で、戦いの様子を民衆の面前で話していたところ、凶漢ならぬ野良犬のためにかまれて不慮の死を遂げました。
 この梅の木狸の巣は、仲之町の来島ドックの事務所前から、波止浜公園へ上がる途中にある老杉の木の根っこに近いところにあります。
 昔は、この梅の木狸の巣に頭を下げてお願いすると、小判や手形、その他膳や椀などの小道具を貸してくれたそうですが、不心得物がいて返済の日を違えたり、返さなかった者がいたので、その後、一切貸してくれぬようになったということです。はじめ、稲垣さんという人が個人でお祭りしていましたが、現在は巣の前にお堂を建てて、八股大明神、禿金大明神、八目大明神等と合わせててい重にお祭りしています。波止浜の栄町の池内肇氏が中心になって世話をしていますが、年に一度は盛大にお祭りをしているそうです。
 
所在地:今治市波止浜
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112.柿の木狸
 波止浜の仲之町に、梅の木壇十郎という狸がいました。この狸は、円蔵寺(黄檗宗)にある天神様のお使いをしていましたが、侍や娘に化けるのが得意でした。よく円蔵寺の裏山の頂から侍姿になって出てきました。また、とても頭がよく、奇知にとんでいました。ある時、ライバルの讃岐(今の香川県)の狸と腕比べをしたことがありました。梅の木狸は、実際の大名行列がやって来るのを知っていて、相手に大名行列をやって見せるからと化けくらべの挑戦を申込みました。相手の狸は、それが本物とも知らず、そっくり同じ化け方をしましたので、即座にその場で狸のしわざだと見破られ、無礼打ちにあいました。また、この梅の木狸は、よく波止浜の料理屋や酒屋へ酒を飲みに来ました。いつも通帳は持っていましたが、帰る時は決まって現金払いで、一度も付けにしたことはありませんでした。ところが、翌朝それを見ると、木の葉っぱだったそうですが、梅の木狸がやって来ると、その店は奇妙に繁盛したので、だまされたとわかっていても大歓迎をしました。
 ところで、この梅の木狸が日露戦争に従軍したということで、次のようなおもしろい話があります。大陸で日本軍がロシア軍に苦しめられ、形勢が不利になっているのを知り、多くの狸族を集めて、海を渡って従軍し、いろいろと化け戦術を使って勝利に導いたということです。なかでも、赤い服を着てロシア軍を攻撃し苦しめた話は有名で、ロシア軍が赤い服を着た兵隊をいくら撃っても、まともにまともに当たらないのに、赤い服を着た兵隊がロシア軍を撃った弾丸は、百発百中であったそうです。―日清、日露の戦争をはじめ、戦争で日本の狸が出陣し、日本軍を助けて戦果をあげた話は、この梅の木狸に限らず他にもいろいろあります。―この戦いの功によって、梅の木壇十郎という姓名を賜わり、勲章を授けられました。戦場から帰って、波止浜の仲之町の広場で、戦いの様子を民衆の面前で話していたところ、凶漢ならぬ野良犬のためにかまれて不慮の死を遂げました。
 この梅の木狸の巣は、仲之町の来島ドックの事務所前から、波止浜公園へ上がる途中にある老杉の木の根っこに近いところにあります。
 昔は、この梅の木狸の巣に頭を下げてお願いすると、小判や手形、その他膳や椀などの小道具を貸してくれたそうですが、不心得物がいて返済の日を違えたり、返さなかった者がいたので、その後、一切貸してくれぬようになったということです。はじめ、稲垣さんという人が個人でお祭りしていましたが、現在は巣の前にお堂を建てて、八股大明神、禿金大明神、八目大明神等と合わせててい重にお祭りしています。波止浜の栄町の池内肇氏が中心になって世話をしていますが、年に一度は盛大にお祭りをしているそうです。
 
所在地:今治市喜田村
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113.ノボリ(幟)狸
 昔、朝倉村のあたりに、にぎやかな祭り好きでお宮の境内や御旅所等によくノボリを立てる狸がいました。村人や他所から来た人たちが、今日は祭りの日でない普通の日なのに不思議だなあと思ってよくよく近寄ってみると何でもないということがよくありました。時々峠や白地等の山の奥の方にノボリが風にゆらいでいたり、笛や太鼓の音頭やお御輿をかたぐ勇ましいかけ声がすることがあって、他所から来た人はお祭りを見に行こうとして山奥へ迷いこみ、夜どおし山の中を歩きまわり一夜を明かしたということも時々ありました。あとで人々は狸のしわざとわかりこの狸を「ノボリ狸」と呼びました。その後人々も気をつけ、注意しあうようになったので、ノボリに化けることはなくなりました。しかし、この狸は、夜、山中に提灯を揚げ明かりがあるように見せかけ、いろいろな手をつかって、人々を誘いこんで困らせたということです。このノボリ狸は、めっぽう祭り好きで本番のお祭りの日にはどんどんひゃららどんひゃららと太鼓に合わせて里人と一緒になって踊ったりみこしをかついでいたそうです。
 
所在地:今治市朝倉上
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114.お産狸
 昔、高橋の権現山の裏山に、ある雌狸がいました。ある時、この狸が、とても難産で喘ぎ苦しんだ末、人間に化けて産婆さんに見てもらったことがありました。産婆さんは、提灯を下げて駕籠に乗って行き、南山を処理して帰りましたが、帰りに謝礼としてもらったお金を後で見ると、全部芝の葉であることがわかりました。この狸の祠は、安産の守護神としてお参りに来る人もいるそうです。なお、狸が難産で人間に化けて、産婆さん(またはお医者さん)に見てもらったと言う伝説は、全国的にも類似のものがぼつぼつあります。
 
所在地:今治市高橋
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115.目だけ出したお高祖狸
 朝倉村の知恵の文殊さんで親しまれている竹林寺(真言宗)の近くにお高祖狸という一匹のメス狸が住んでいました。この狸は夜が来ると、年から年中お高祖頭巾と言って、目だけを見せ頭や顔面を包んだ頭巾をかぶっていました。夜、竹林寺へお参りや用事で行く人たちを、ちょうちん片手にいかにも道案内をするような親切をよそおった格好をして、あちこち引きずりまわし道を迷わせました。道に迷ってとうとう夜が明けてしまった人や、草木や枯枝のおい茂る山の中をかけずりまわされ、すり傷だらけになった人も多かったそうです。特に竹林寺へ除夜の鐘を聞きながら初詣をする参詣人はよくだまされたそうです。「目が物を言う」とか「目に物言わす」と言ったタイプのすばらしい目をした狸で、男性には色気を女性にはしとやかさを装った、人をひきつける魅力のある目をして人間を化かしました。この狸は木のぼりをしていて、木の枝がはね顔をけがしていたので、お高祖頭巾をかぶっていたのではなかろうかと言われています。
 なお、桜井・富田・朝倉のあたりにかけてオーエン狸という狸がいて、高坊主と言って背の高い大きな坊主頭の大入道の妖怪に化けて人を驚かすたちの悪い狸もいて、びっくり仰天のあまり、腰を抜かして一晩中立ち上がれず随分困った人もいたそうです。このオーエン狸は、お高祖狸が顔に傷があるので、時々妖怪に化けたのではないかという人もいますが、はっきりしたことはわかりません。
 
所在地:今治市古谷
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116.榎狸
 今から約380年の昔、慶長9年(1604)に今治城を築いた藤堂高虎が、家来を召し連れて、今治城下をあちこち視察してまわりましたが、ある時、榎町(今の蒼社町)のあたりへ来た時、この地の人たちに、「築城記念に余(余は自分の意味)の木を植えよ。」と命じました。村人たちは『余の木』と言うことを十分理解することが出来ず、早合点して、『エノキ』(榎)を植えました。
 榎は年とともに成長し、数百年の樹齢を数える頃には、大人3人でかかえかねるくらいの大老木になりました。そして、いつのころからかこの大老木に、1匹のはげ頭の大きな狸が住むようになりました。だれというとなしに、この狸を榎狸と呼びました。この界わいには、妙なものに化けて人をだましたりする意地の悪い狸がいましたが、榎狸に限ってそんなうわさもなく、近くの鴨部神社(東禅寺だという説もあります。)の使い走りをよくしていました。ところで、ある夏の暑い日、清水の八幡さんにお使いを済ませての帰り、暑さと疲れで、榎の近くのなすび畑の日陰でうたたねをしていたところ、蔵敷の住人に見つけられ、棒を手にした数人の者に追いたてられ、あえない最期を遂げました。その晩、狸退治(?)をあした人達を中心に、隣近所の人たちが皆で狸汁を作ってにぎわいました。ところが、その後、狸退治をやった連中や家族、それに狸汁をよばれた者が、次々と変死したり妙な病気にかかるなど珍事が続出しました。この地の人たちは、これはてっきり榎狸のたたりだと大いに恐れ、有志の間で相談の上、祈とうをしてもらい、その結果、現在の毘沙門天(元上河原通、日の出町踏切りの横耶麻<現在の蒼社町1丁目>にあります。昔は萩がこの周辺に咲きみだれていたので、萩の森の毘沙門天ともいわれています。)の隣地に新宮を造り「高砂八幡」としてお祭りしました。その後、従前ほど、災難は起こらなくなりましたが、それでも、またぼつぼつ変な病気になる人が後を断ちませんでした。そこで、鴨部神社の境内に新たに「お狸様」と称する宮社を造り―蔵敷町の故青野小三郎氏の発起によるもの―一層てい重のお祭りしたところ、その後、ぷっつりと災難がなくなったということです。
 大正末期にこの地方が台風に襲われた時、老齢に耐えかねた榎は倒れてしまいました。2代目の榎が、その後植えられ、かなり大きく成長していましたが、それも現在は切られてなくなり、榎の後に商家が建っています。
 特に、第二次世界大戦で、今治が空襲にあい、近くの家が消失しているにもかかわらず、榎狸を祭った宮社が焼けなかったこと、30数年前、榎の近くで火事にあった際も、榎の木の近くに住んでいた榎狸の信者の家が、榎にさえぎられて焼けなかったこと等、偶然と思われる面もありますが、このようなことが重なりあったことが「お狸さん」の人気を高めているようです。とりわけ、老人の中に「お狸さん」にお参りすれば、『ご狸益』ならぬ『ご利益』があるとかで信仰する人が多いそうです。榎の木はなくなりましたが、榎狸の宮社が、榎狸の名ごりをとどめています。
 
所在地:今治市蒼社町
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117.大楠と3匹の狸
 別宮の大山祇神社(別宮町3丁目)の境内に、何かかえもあろうかといわれるほどのとても大きな楠の木があって、昼でも薄暗いくらい枝が四万八方に広がっておりました。ここに、いつのころからか3匹の姉妹の狸が住んでいました。その名を「お奈遠」(おなを)、「お佐遠」(おさお)、「お袖」(おそで)と呼んでおりました。―楠の木と関係が深いところから、別に3匹の狸を「大楠さん」とも言っています。―これらの狸は、とても賢かったそうですが、時々妙なものに化けて、参拝者に意地の悪いことをして困らせることがありました。(別にそんないたずらをしたことはなく、賢くて気だてが優しく、また、何でも知っていた上に、人々の願いをはっきりと聞いてくれたという人もいますが、古老の間では、時々意地の悪いことをしていたという話を多く耳にします。)しかし、別宮の大山祇神社と隣会わせにある南光坊(真言宗、別宮町3丁目)の快道和尚―弘化3年(1846)〜大正12年(1923)、頭脳明せきな上に体格にも恵まれた傑物であったといわれています。―の言うことは非常によく聞きました。これらの3匹の狸は、狸がくれならぬ神通力を使って、実際にその場にいて普通の人には姿を見せないでいろいろなことをしました。ところが、快道和尚にはよく見えたそうで、こんなおもしろい話があります。快道和尚がだれもいない縁側で、なれなれしく「これこれ、お奈遠や、そこで何をしているのかね。」と言うので、側にいた人が不思議に思ってだれかいるのか尋ねると「そこでお奈遠が日なたぼっこをしているのだよ。」と言われたそうです。ところで、ある時、金比羅堂の屋根の上に楠の木の枝がのしかかっていて、風が吹くと屋根をたたいて瓦をこわしてしまうので、村人たちが協議の上、これを切ることにしました。のこぎりやなたを持ちよって、木を切る用意をして木の下に集まると、何とそれまで屋根すれすれにはっていた枝が、お天道さんの方へ向きを変えていました。快道和尚が、3匹の狸に頼んで方向を変えてもらったのだろうということが、村人たちの間でも、もっぱらうわさされました。
 その後、村人たちの勧めもあって快道和尚は、神主さんと相談して、楠の大木のほら穴の側に祠を建ててからは、狸が人を化かして困らせるというようなことは一切なくなりました。今度の太平洋戦争で、空襲を受け焼けてしまったので、別に新しく楠の木を移植してその端に祠を建てました。これらの祠は、それぞれ「お奈遠大明神」「お佐遠大明神」「お袖大明神」と呼ばれ、お願を掛けに来る人も多いそうです。お袖大明神の楠の木だけは戦前のもので、わずかに昔の名ごりをとどめています。
 
所在地:今治市別宮町
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118.明堂さんとお袖狸
 越智郡大西町の大西駅から約2キロの位置にある重茂山の麓の大西町山之内に明堂菩薩をお祭りしたお堂があります。このお堂は、南北町時代の昔―詳しくは延元3年(1338)―この地で亡くなられた後醍醐天皇の第6皇子尊重親王の霊を祭るために天正年間(1573〜1592)に河野一族の重茂山城主岡部忠重が創建、仏像を安置したのにはじまると言われます。このあたりの人は、このお堂を明堂さんとか明堂本尊、明堂菩薩と言って尊崇しております。この明堂さんは、昭和9、10年頃(1934、1935)沢山の参詣人でにぎわいました。この明堂さんの端にある大榎(山桃という説もあります。)のほら穴に、松山市の市役所前の堀端の大榎に住んでいたと言われる狸が移り住み、人々の願いをよくかなえたそうです。この狸は、先祖が松山城に住んでいてお袖狸とか八股榎大明神と呼ばれ末永く松山城を守った血統つきの狸族です。難病奇病をよく治しましたが、特に明堂さんの大榎をなで、そこへ灸をすえると、すごく効き目があったそうです。このお袖狸も1年ほどここにいましたが、きれいな娘さんに化けた松山の仲間数匹に迎えられて、元の松山に帰ってしまったそうです。
 諸病の回復、安産の守護、商売繁昌、金運の恵与等お袖狸の化身と言われる明堂本尊が大活躍した当時は地元の大西町山之内の明堂さんに至る街道筋から今治市、菊間町の主だった道路筋は、参詣人で長蛇の列が延々と続いていたそうで、昼は言うに及ばず、夜も勤めを終えた人でいっぱいだったということです。当時はタクシーよりも人力車の利用が多かった時代でしたが、人力車にしても自転車にしても利用したのはごく一部の人で、ほとんどの人が歩いて参詣しました。しかも、脇、山之内から明堂さんに至る道路は、道幅が狭かったので、歩く人で一ぱいになり、人力車や自転車で参詣するのはかえって手間どったようです。参詣者の範囲も広く、島しょ部は言うに及ばず、中国、近畿、九州をはじめ遠くは関東、東北、北海道地方の人々まで見えました。また、脇、山之内にかけての沿道には、参詣人相手のにわか商売人の露店が並び人並みでごったがえしました。それから大西駅(当時は大井駅と言いました。)が、人の乗り降りで混雑した―一日の乗降客がふだん200名程度であったものが、5千〜6千名と25〜30倍という繁昌ぶりだったと言われています。―ほか、今治、大西、菊間の浜辺にもあちこちから船がやってきてにぎわったそうです。
 お袖狸が元の古巣の松山へ帰って以来ご利益ならぬご狸益があると今も沢山の提灯が奉納され、県内は言うに及ばず広島県山口県方面の信者の参詣人もいるようです。信者の間では、このようなことは90年目ごとに訪れてくるとされ、次は平成37年頃(2025年頃)にブームが訪れてくると真偽は別として熱心な信者の間で言われています。
 
所在地:今治市大西町山之内
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119.鶴吉大明神
 昔、今の美保町4丁目のあたりに、樋呑(ひどんと読むのが正しいのですが、ひいどんとかひいどという人も多いようです。)の鶴吉さんというたいそう賢い狸がいました。この狸は、かにが大好物で、近くの川でよくかにをとって食べました。また、かにで魚を釣るのも上手でした。漁師がかにを持って行ってやると、非常に喜んで何でも願いごとをかなえてくれました。とりわけ、漁師の大漁の望みをかなえてくれることが多かったそうです。また、台風がやってくる気配がある時には、漁師の家に知らせにまわって被害を未然に防いだともいわれます。このように功徳であったので、里人は鶴吉大明神として、小さな祠を建てて、てい重にお祭りしました。いろいろ願いごとをかなえてくれるといわれ、参詣人も多いそうです。なお、真偽のほどは別として、鶴吉大明神の姿らしきものを見た信者もぼつぼついるそうですが、いずれも白髪白ひげの老人であったということです。
 
所在地:今治市美保町
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120.片目の鯛と狸
 昔、桜井の浜の1匹の狸がいました。この狸は、意地が悪く、漁師が鯛をとっていると、いつも一目を盗んで、決まったように鯛の目玉をくり抜いては食べました。これにとんと気がつかなかった漁師が、ある日、これが狸の仕わざであるということを、ひょっこりと見破りました。怒った漁師は、この意地の悪い狸を海へほうりこんでやると息巻きました。困りはてた狸は「命だけは許してやってください。」その代わり、あなたがとった鯛は、必ずよく売れるようにして見せます。」と言って、命ごいをしました。助けてもらった狸は、修業僧に化け、桜井の町の各家の前に経文を唱えながら立ち、「今年は悪病が流行します。この厄除けには片目の鯛がよく効きます。」と言ってまわりました。そのため、漁師は、片目の鯛がべらぼうもない高値で売れ大もうけをしました。
 
所在地:今治市桜井
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121.狸の返礼
 享保の昔、二俣儀兵衛という今治藩士の屋敷に、毎晩狸が出て来ていたずらをしました。儀兵衛は何とかして狸を捕らえようと、いろいろ苦心しましたが、いつも旨い具合に逃げられてしまいました。ところが、ある晩、儀兵衛が、狸の逃げた跡に綿の小さな袋が落ちているのを見つけ、これを持ち帰ってから、狸のいたずらはぴったりと止みました。しかし、毎晩儀兵衛が寝床につくと、決まったように戸を叩いて、火燈し(燈火のこと)を返してくれるようにと、懇願する声を耳にするようになりました。儀兵衛は、最初何のことやらわからず、不審に思っていましたが、もしやあの持って帰った袋のことではあるまいかと考え、その妙な袋を元の所へ戻して置いてやりました。翌朝見てみると、置いていたはずの袋はなくなっていました。そして、不思議なことに、儀兵衛の広庭に大きな干鯛が重ねて置かれてありました。このことがあって以来、夜が来ても別に変ったこともなく日が流れました。何日かたったある日、山里のお蔵の中に、礼儀などの用意のために保管していたはずの干鯛が、なくなっていることを係りの役人が発見し、心配しているという声が人々の耳に入りました。これはすべて火燈し用の袋を返してやった礼に、山里のお蔵にあった干鯛を持ってきた狸のしわざに違いない。狸のような畜生にも礼の心があるものだと、人々は大いに関心したということです。この話は、今治藩の家老をつとめた服部正弘の「続今治夜話」に掲載されています。
 
所在地:今治市黄金町
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122.自殺のまねをする狸
 昔のことです。ある郵便配達の人が近見の松本(現在は近見町になっています。)で松の木で首をつって自殺をしようとしている娘さんを見つけました。郵便屋さんは、娘さんからの事情を聞いて自殺することを思いとどまるように説得しましたが、娘さんは悲しそうに苦しそうにシクシク泣くばかりでなかなか思いとどまろうとしません。ところが、郵便屋さんの方もどうしても早く配達せねばならない大事な手紙を持っていたので娘さんに「ちょっとそこまで急ぐ大事な用事があるから、すましてくるから短気を起こさず待っていてほしい。」と言って失敬しました。すぐに用事をすませてから娘さんのいた場所へ戻って来ましたが娘さんの姿が見当たりません。辺り一帯をいくら捜しても判りませんでした。ところが、娘さんが自殺をしかけているのを見かけたという話が、この松本のあたりでよくうわさになりました。やがてこれは、狸のしわざに違いないということになり人々は、この狸を「自殺狸」と呼んで相手にしないようにしました。声をかけてもらい、心底、親身にしてもらう人の情けを喜んでわざと自殺のまねをしていた狸も、人々が相手にしてくれなくなってから自殺のまねをやめるようになったそうです。
 
所在地:今治市近見町
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123.浜子をだました狸
 昔、波止浜の旭方によく意地悪をして里人を困らせる狸が出ていました。波止浜に塩田があった時分のことです。塩田で働いていたある浜子が、いつもは夕方家路に着くのに、仕事が忙しくて帰るのがすっかり遅くなり、太陽が西に沈み日がどっぷりと暮れてしまいました。ランプを片手に疲れた足どりで家路を急いでいましたが、いつも渡る橋がこの日は見当たりません。これはおかしいと目をこすりこすりよく見てみますと、少し離れた位置に橋があります。橋があったと思われる位置に来てみると、また少し離れた位置に見えます。同じようなことをくり返し、あっちこっちとうろうろしている間に夜が白みかけました。やっと橋の所在がはっきりし、無事に家に帰ることが出来た時には夜が明けかけていました。心配していた家族に対し、本人は、2、3度あっちこっち行き来しただけだと言いましたが、ランプの油もほとんど使い果たしており、夜どおし歩いていたようです。これは、波止浜によく出ていた仲之町の梅の木狸の一派のしわざではなかろうかと人々はうわさしました。
 昔は、天保山や桜井の浜にも意地悪狸が出て、夜中に釣やカニ捕りをしている人たちをあっちこっちへと夜どおし引っぱりまわして困らせたという話も聞きます。ある男の人が倉社川尻にカニ捕りに行って帰ろうとした時、岸の明かりに行けども行けども近づくことが出来ず、夜どおし海辺をあちこちと歩きまわったそうです。
 
所在地:今治市高部
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124.豪傑を坊主頭にした狸
 昔は、高地から阿方に抜ける山道は木々がうっそうと茂っていて、昼間も暗く、山賊や追いはぎが出没し山越えをする人々に危害を加えたり、狸が化けて出たりして人々をよくたぶらかしたそうです。
 ところで、近見山の近くに口、頬、顎に立派なひげをたくわえたみるからに強そうな、ある豪傑がいました。この豪傑は、少々おせっかいでお人好しのところがありましたが、正義感の強い男でよく山賊や狸を追いはらって、山を越える人たちの安全をよく守ったので村人から慕われていました。しかし、反面山賊や狸には嫌われました。あるむし暑い日の夕暮れのことです。1人の気だてのよい美しい娘さんが山越えを前にどうしたらよいものかためらってました。丁度そこを豪傑が夕涼みがてら峠のあたりを散歩していました。娘さんは、豪傑に「私は母親が急病でどうしても看病をしなければならないので、阿方の方へ山越えをしなければなりません。お見受けしたところ力のお強い方だと思います。足手まといになってまことにすみませんが、どうか一緒に山越えをしてくださいませ。」とかわいい声で懇願しました。豪傑は、高笑いして「よっしゃよっしゃ、心配せんでええ、まかしときな。おやすいこっちゃあ。拙者がお供をして進ぜよう。」と気軽に引き受けました。2人が山を越えていると案の定山賊が出て来ました。いつもと違ってこの日の山賊は、十数人と大勢いました。豪傑は、山賊と戦いましたがなかなか勝負がつきません。何人かを退治しましたが、娘さんを守りながら戦わねばならず、それに軽い眠む気がして困っていました。丁度そこをあるお坊さんが通りかかりました。お坊さんが中に入って「お侍さん、この娘さんはわしに任しときなさい。わしが無事にふもとまでお送りしましょう。」と言いました。豪傑は娘さんをお坊さんに任せました。1人になった豪傑は、山賊を何とか蹴散らかしました。疲れ果てて1人で山越えをしましたが、いくら行っても行っても峠を越えることができません。そのうち、ある家の明かりを見つけました。明かりを追って家を訪ねてみると、先ほど会ったお坊さんが出て来ました。お坊さんは、「豪傑さん、やっぱりあなたは坊主頭にすると、もっと力持ちに見えるぞのもし、何なら私が頭をそって進ぜよう。」と言って、頭を剃ることを勧めました。長い髪を自慢にしていた豪傑もあまり強引に勧めるので、しぶしぶ頭を剃ってもらいました。そのあと疲れをいやすために風呂に入れてもらうことにしました。鼻歌まじりでいいあんばいで風呂に入っておりますと、そのうち鶏の鳴き声が聞こえ夜が明けました。あるおばあさんに「これこれそこのお坊さん。そんなきたない所で何をしとるかのもし。早く出なされ。」と言われて豪傑は我に返りました。何と頭を丸坊主にされ野壷の中であびていたのです。この話が里の人に聞こえずにはおれません。豪傑は、狸の悪知恵に負けたわけですが、このことがあって以来、すっかりしょげ返り、夜峠のあたりを散歩したり山越えすることを止めました。娘さんもお坊さんも、そしてひょっとしたら山賊も狸のしわざではないかと里人はうわさしあったそうです。そして、義侠心の強い豪傑男を気の毒がりました。
 
所在地:今治市高地町
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125.須賀の森の坊主狸
 昔、桜井の長沢の須賀(素鵞)の森に、須賀の森の主といわれた古狸が住んでいました。この狸は娘に化けるのが得意で、人を騙くらかして、相手を丸坊主にしてしまうという悪戯をよくしました。それで村人たちは、この狸を須賀の森の坊主狸と呼びました。ところで、この坊主狸の悪戯について、こんな話があります。村一番の金持ちの家に、娘さんの外出している隙を窺って、この坊主狸が娘に化けて入り、すまして夕食をしていました。これを知ったあるお百姓さんが、このことを主人に告げたところ、逆に、頑固者の主人が、嫁入り前の娘を狸呼ばわりしたと酷く立腹しました。仲裁に村の和尚さんが入ったけれどもおさまらず、和尚さんがいることだから和尚さんにまねて、詫のしるしに、即座に頭の髪を剃って、坊さんになることを強要されました。
 結局、このお百姓さんが注意いたことが仇になり、坊主狸のために丸坊主にされてしまったわけです。この伝説は、前述の故合田正良氏の「伊予路の伝説・狸の巻」―合田氏が元松山の護国神社の宮司、故矢野稜威雄氏から取材されたもの―に、今少し詳細に、そして面白く書かれています。
 以上、今治の狸に関する伝説をまとめてみました。まだ他にもいろいろおもしろい話がおろうかと思いますが、またの機会に譲りたいと思います。
 私が以前入院していた徳島市には、阿波狸にまつわる狸の祠が60余りもあるとかで、あちこちで阿波の狸奉賛会や徳島市徳島観光協会が、祠の前にその狸にまつわるいわれを書いた立て札や木碑を立てているのをよく見かけました。狸祭の催し物を書いた広告なども目にしました、また、以前吹揚城の石垣に、野生の豆狸の親子が発見され話題になったことがありました。これらのものに接していると、何とはなしにほのぼのとした心温まるものを感じます。伝説に出てくる狸を髣髴させてくれるのも面白いものがあります。
 なお、富田の東村の真光寺(真言宗)に、狸の石像がまた、高松市の屋島寺(真言宗、四国88か所84番礼所)の近くの稲荷神社にある狸の陶器がそれぞれお祭りされていますが、珍しいので本文の伝説とは関係ありませんが、写真を掲載してみました。
 
所在地:今治市長沢
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126.病馬に効く薬を届けたえんこ
 昔、浅川のあたりに、非常に力持ちのえんこ(猿猴と書くことがあり、えんこうともいいます。カッパまたはかわうその異称ともいわれています。)がいて、よくいたずらをしました。特にこのえんこは、馬屋の中にいる馬や道ばたにつないでいる馬をよく川の中へ引きずりこんで、尻子玉(肛門の口にあると想像された架空の玉)を抜き取りました。このように散々悪事を働いていたこのえんこにも、運の尽きる日がきました。ある時、がん強な男の人が馬に乗って、浅川のあたりを通っているところを呼びとめて、馬の口をとらせてもらって、いたずらをしようと思っているところを、ぐいと腕を捕えられて、ねじ伏せられました。「いつも馬の命をとるやつはお前に違いない。今日はこらえるわけにはいかない。お前のような悪さをするやつはひどい目にあわせてやる。」と物すごいけんまくで断じあげられました。「もう二度と、お馬に危害を加えるようなことはいたしません。今までのおわびに、これからは必ずお馬をお守りいたします。どうか命だけはお助けください。」と懇願して、やっと助けてもらいました。その晩、許されたお礼にこの男の人の枕もとを訪れ、馬が病気にかかった時によく効くという薬を届けました。
 この薬は、魚のひれのようなもので、事実、病馬に非常によく効いたそうです。今は見当たらず、また、病馬に効くという話も聞きませんが、明治4年(1871)、吹揚神社に一緒にお祭りするまで、中浜町3丁目の美保神社(昔は、俗に蛭子さんといっていました。)の柱に、張り付けてあったそうです。
 
所在地:今治市大新田町
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127.骨つぎを伝授したえんこ
 昔、来島や波止浜の海岸に、畑の作物を荒したり、生簀(取った魚を生かして飼っておく所)の魚を盗んで食べたり、馬屋の中につないでいる馬を海中に引きずりこんだり、人の尻子玉を抜き取って食べるなど、いたずら放題のことをするえんこが住んでいました。このえんこが、ある骨つぎ医者の女中が用便をしているところを、毛もじゃの手を下からのばして、尻子玉を抜き取ろうとして失敗しました。このことを女中から聞いた主人の医者が、女中の身代わりで用便のまねをして、えんこの片手を切り落としてしまいました。医者は珍しい腕なので、木箱の中へ入れて大事に保存することにしました。ところが、しばらくして片手になったえんこは、「もうこれからは、絶対悪いことはしませんからご勘弁ください。早いうちだったら手が元どおりにつきますから、是非お返し下さい。その代わりにお礼として、骨つぎの秘術を伝授させていただくことをお約束します。」と何度も何度も哀願しました。手を返してやった医者は、その後、約束どおり骨つぎの秘法を伝授してもらい、鎌田の骨つぎ医者として、大いに繁盛したということです。
 このようにえんこが、人や馬にいたずらをして腕を取られたのを許してもらった礼に魚を届けたとか、切り傷の妙薬を届けたとか、骨つぎの伝授をしたとかいった伝説は、全国的にかなりあります。
 
所在地:今治市来島
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128.幻の動物かわうそ
 最近、かわうそ(日本かわうそ)は絶滅寸前にありますが、昔は、全国各地に生息していたようです。このあたりでも、地方の川や池のほか、馬島、小島、来島等の島の海岸には、かなり住みついていたという話をお年寄りからよく耳にします。
 かわうそは、イタチ科の動物で、尾をふくむ全長は、普通約1.2メートル程度、体は大体暗かっ色(または茶かっ色)であり、4肢は短く、水かきがあり、太くて長い尾を持っています。また、魚やかにや貝を捕える時には、後ろ足で立ってすばやく食べるという器用な習性があるようです。
 馬島のあるお年寄りの話では、夜が来るとガオー、ガオーと鳴きながら丘に上がって、民家の近くまでやって来て、池や生簀の魚を捕えるなどよくわるさをしたそうです。島の人たちが退治しようとしても、利口で泳ぎが達者であるばかりでなく、陸上での活動もかなりすばやく、人前に姿を現わさないなど神出鬼没(目に見えない鬼神の働きのように行動が自由自在で、容易に所在がつかめないこと。)の面があったので、容易に捕えることが出来なかったようです。このように変幻自在であることから「幻の動物」とも言われ、(絶滅化しつつあり、ほとんど見られないことからいう場合もあります。)昔から海岸や大きな池や川べりや深い淵にはかわうそがいて、よく人を化かしたり、人や動物を水に引き込むという俗説が伝えられています。えんこはかわうその別名といわれていることから、先に述べたいたずらをして捕えられたえんこの話も、かわうそのことをいっていると考えられそうです。県の文化財専門委員の故八木繁一氏によれば、尾が太くて長い上に泳ぐ時に体を長くしてすばやい動作をするので、えんこ、カッパはもちろんのこと、各地に伝わる大蛇伝説も、その正体は、かわうそではなかろうかと言っています。
 毛皮が美しくて高価なことから一時乱獲したこと、川や海岸の開発、農薬や汚物による公害の影響等によって、現在その数もずっと減り、このあたりでも全然姿を見せなくなってしまいました。最近、高知県下のある河川で発見され、テレビで放映されたり、新聞に掲載されたことは皆さんもご承知のことと思います。全国的に絶滅化の傾向にあるだけにまことに喜ばしいことです。昭和40年(1965)に特別天然記念物に指定され、その保護が叫ばれているのが昨今の現状です。各地に昔から伝わっているカッパ、えんこ、大蛇等の伝説が、かわうその絶滅化とともに、失われていくことも考えられるだけに、かわうそが生息しやすいようにきれいな自然環境の改善をはかるなど、保護育成につとめてほしいものです。
 ここで取り上げた「幻の動物かわうそ」は、伝説というより、かわうそそのものについての実態や推移を述べただけで終っているかと思います。かわうそは、古来から人語をまねて人をだますという俗説や大蛇伝説とのかかわりがあり、人々に親しまれている動物であること、絶滅寸前で保護が叫ばれていること等、少しでも参考になる点があればと思って取り上げてみました。
 
所在地:今治市馬島
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129.大だこの足とり
 昔、波方町の小部に、おトラさんという漁師のおばさんが住んでいました。ある晴れわたったのどかな日、小部の北の浜のいそ辺を歩いていると、近くの岩の上で、大だこがこっくりこっくりと昼寝をしているところに出会いました。おトラさんは、その足を1本大きなナタで切り取りました。さっそく、町へ売りに行きましたが、案外高い値段で売れました。翌日、おトラさんが同じいそ辺に行ってみると、やはり前の日と同じように、大だこが昼寝をしていました。また、ナタで切り取り、売りに行きました。味をしめたおトラさんは、毎日同じようなことを繰り返しました。8日目に最後の1本足となった大だこを、足とともに頭も一緒に持ち帰ろうという意気込みで、大ナタを振りかぶりました。その瞬間、大だこの1本足が、おトラさんの体にピシャリと巻きつきました。そして、大だことともにおトラさんの体は、ズルズルと海中に引きずり込まれてしまいました。
 このことがあって以来、おトラさんも大だこも、姿を現わさなくなりました。わずかに、その名ごりをとどめる岩が、「おトラ岩」とか「たこ岩」と言われて残っています。
 これと全くよく似た話が、近くの大西町九王という所にもあります。こちらの方は、伝兵衛という漁師が釣りをしていて、大だこが岩の上にはい上がってくるのを見つけ、毎日大ナタで1本ずつ切り落して獲物にし、8本目を切り取ろうとして、先におトラさん同様、大だこの1本足に巻きつけられ、水中に消えてしまうという話です。ここでもこの名ごりをとどめる磯が残っており、このあたりの人々は、今もって「伝兵衛磯」と呼んでいます。
 このようなたこの足とりの類似の伝説は、全国的にあちこちで見られます。
 
所在地:今治市波方町小部
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130.犬塚のいわれ
 昔、玉川町の作礼山の仙遊寺(真言宗、四国88か所58番札所)のお坊さんが、忠実で大変賢い犬を飼っていました。この犬は、向かいの八幡山の栄福寺(真言宗、四国88か所57番札所)との間を行き来し、使い走りをしたので、両方のお寺やお坊さんから重宝がられかわいがられました。―一説には、この犬は、白犬で両寺のお坊さんが飼っていたともいわれています。―この忠犬は、仙遊寺の鐘が鳴れば作礼山へ、栄福寺の鐘が鳴れば八幡山にすばやく上がっていき、きちんと用意を果しました。
 ところが、ある日の夕暮れ、どうしたことか、両方の寺の鐘が同時に鳴りました。忠犬は、どうしてよいものかと迷い、作礼山と八幡山のふもとの間を、何度も何度も往復しましたが、ついに精根尽き果てて、池に落ちて哀れな最期を遂げてしまいました。―両寺の鐘が同時に鳴ったことについては、2つの寺の人々が相談して、どちらの寺が好きかをためしたとか、両寺のお坊さんにかわいがられていた忠犬に、平素から余りよくない考えをもっていた小僧や寺男が、お坊さんの留守をねらってやったいたずらであるとか、いろいろにいわれています。―両寺のお坊さんは、大変悲しみ、霊を慰めるため、池の堤の近くの丘の上に、お塚を作って手厚く弔いました。その後、この池を堅い忠犬にちなんで、だれいうとなしに、犬塚の池(玉川町別所)と呼ぶようになりました。
 元あったであろうといわれている犬塚は、現在は見当たりませんが、その代わりに、犬のために作られたのではなかろうかといわれている石地蔵が、池の堤に残っています。
 この犬塚の池は、今治藩主7代松平定剛時代の寛政7年(1795)から文化14年(1817)の23年の歳月をかけて築造しています。したがって、犬塚の伝説も、少なくとも今から170余年以降のもので、比較的新しい伝説の部類に属することになります。
 なお、仙遊寺、栄福寺ともに真言宗で、弘法大師がお開きになったお寺ですが、弘法大師が高野山の金剛峰寺で修行された時にも、猟師からじんしろとじんくろという2匹の犬を譲り受け、大変かわいがったという話が残っています。また、弘法大師が唐(今の中華人民共和国)に留学した時、死んだある忠犬を、真言密教の法力で生き返らせて、連れ帰り、かわいがったということが伝えられており、今も弘法大師の誕生地として名高い香川県の善通寺市に、犬塚といわれるものがあります。
 こういったことから、弘法大師または真言宗の寺院と犬は、案外ご縁が深いのではないかと思います。
 それから、犬は、家畜になった最初の獣といわれ、古くから人間に親しまれるとともに、忠犬、義犬にまつわる話も多く、俗に「犬塚」と言われるものが、全国的にあちこちに見られるようです。
 
所在地:今治市玉川町別所〜八幡
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131.波止浜塩田と潮止さん
 ずっと昔は、波止浜港から高部、杣田、更に波方町の樋口のあたりまで、奥深い入り海であったようです。古い建物では、このあたりのことを筥潟と書いており、遠浅の海を想像させます。樋の口の潮畑、潮越、潮塚、打越、メバル(眼張)岩などは、昔、海であった名ごりではなかろうかといわれています。この遠浅の干潟が、良好な気候条件と相いまって、やがて塩田(入浜式塩田)の好適地として着目されるようになります。この製塩にいちはやく目をつけたのが、旧波方村の長谷部九兵衛義秀という人です。九兵衛は、製塩法を知るため、安芸(今の広島県)の竹原へ渡りました。封建制度下で封鎖的な考え方の強い時代でしたので、製塩法は、絶対秘密とされており、他藩の者は日雇いになることすら禁じられていました。そこで、九兵衛は考えあぐんだ末、乞食になって雇ってもらうことにしました。浜子になった九兵衛は重労働に耐えながら、人目をしのんで、製法を記録したり、絵図面を書くなどして、苦心惨たんの末、製法を身につけて帰ります。今治藩としても塩田の製造を大いに支援し、九兵衛を浦手役につけ、郡奉行兼代官の園田藤太夫成連も力を尽くします。
 さて、工事も進み堤防を築くことになりました。一方は今の宮ノ下の龍神神社から築き始め、他方は金子の方から築いていきました。双方の堤防が合わさった所を最後に築き上げるのには、当時の土木技術としては大変な苦労がいったようでした。干潮時を利用して多くの労力でもって迅速に築き上げねばなりません。当時の記録によれば、1083人の人夫を要したということです。いよいよ大詰めの最後の箇所になって、人柱に代えて、波方村の一頭の牛が生き埋めにされました。このようにして、南北270間(約491メートル)の堤防が首尾よく完成しました。時に、元和3年(1683)3月9日(8日ともいわれます。)でした。この時、犠牲になった牛の霊を弔い、感謝するため、生き埋めにした所に松を植え、祠を建て「潮止さん」「潮止明神」としてお祭りしました。この松と祠は、国道317号線沿いの波止浜地掘の『波止浜興産中堀給油所』の近くにあります。当時の松は枯れ、今その代わりの松が植えられております。
 なお、長い間地元民に貢献した波止浜の塩田も、外国塩の大量輸入や国内塩の生産過剰などから採算があわず、昭和35年(1960)に廃止の憂き目にあいました。最近は塩田跡に住宅、事業場、ゴルフ場、自動車教習所等が出来、昔の面影が、ほとんどなくなっており、このような塩田の苦労話や潮止さんの話も忘れ去られようとしています。
 
所在地:今治市波止浜
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132.馬島開発の由来
 波止浜の東北・約2キロメートルの海上で、来島海峡の真ん中に馬島という周囲約4キロの小さい島があります。瀬戸内海大橋の来島第3大橋の架橋地点の1つとして脚光をあびている島でもあります。ところで、この馬島はその名のごとく馬と非常に関係があり、また、馬に好適の土地であったようです。もともとこの島は無人島でしたが、本格的に開発されるようになったのは江戸時代初期のころです。開発のはじまりは、今の吉海町椋名から移住してきた塩見六右衛門という人でした。―六右衛門の祖父初代塩見五郎右衛門は、吉海町福田村の庄屋で2代目塩見五郎右衛門の時に椋名村に居住したという記録が残っています。―六右衛門は慶安3年(1650)に、今治藩主に馬島の開発を願い出て許可をもらい、島に渡ったわけですが、初め3年ほどは畑作が思うようにいかず、作物が一切出来ずずいぶん苦労したようでした。それは、この島に青馬と栗毛馬の2頭の野生の粗暴な馬が生息していて、まいた種や収穫物を荒したからだそうです。六右衛門がさっそく藩主の許可を得て、この2頭の馬を退治したところ、おいおい作物も出来るようになったといわれています。このことは『塩見家由緒書』に書かれています。―現在、現物の古文書が見当たらず、その写しが残っています。―大浜中の塩見篤雄氏は六右衛門の直系で12代目に当たります。古文書に馬島のことを牧島と書いた記録が残っています。江戸時代末期には、今治藩の馬の放牧場として島が利用されていたようです。島全体に草がおい茂り、放牧には格好の土地であったので、今治藩士のための名馬を数多く育てたということです。また、当時、馬島には、周囲の海にあしか(オットセイに似た、大形の海産哺乳動物)がぼつぼつ住んでいたそうで、真偽のほどは別として、そのあしかと馬が交配して数多くの名馬が生まれたというおもしろい話も残っています。赤羽根という柔らかい石の群のある所がありますが、そこにはつい最近まで馬が歩いたひづめの跡が化石になったものが、点々と残っていたといわれています。今は波に洗われたり風化してほとんどそれらしい跡が残っていませんが、馬島の故塩見米太郎氏の子供のころは、その跡がはっきり残っていたそうです。
 なお、馬の放牧地としては、この近くでは吉海町の名駒をあげることができます。「名駒」という名前の起こりは、伊予の水軍が活躍した時代に、軍用の名馬を育てたところからきているといわれます。また、馬にちなんだ地名として富田の松木があげられます。「松木」は律令制度の時代(大化の改新から平安時代末期まで)の太政官道の駅屋(街道の往来で、旅人の便利をはかり、馬や人夫を備えて置き、旅人の求めに応じて継ぎ立てをした所)の跡で、馬次、馬継ぎが転訛したものだという説があります。
 
所在地:今治市馬島
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133.首なし馬
 昔、今治市の町谷付近に、首のない馬に首のない人が乗って通っていたそうです。この亡霊?は大晦日の晩になると、天神様(菅原道真を祭った天満宮の異称です。以前は朝倉村古谷にありましたが、今は朝倉村の多伎神社に合祀されています。)―町谷本郷―小山―楠谷池の堤―平山―町谷の姫坂神社のコースを、ぽかぽかと蹄の音をたてて通ったとか、(現在、この首なし馬の通ったコースは殆ど畑になっています。)そして、この首なし馬を見た者は、とんでもない災難に出会うといわれ、そのため、この通り道に当たる家では、大晦日も夕暮の時分になると、早くから戸を閉めて外出をさけました。ところが、この首なし馬が通ると、釘づけにしたはずの戸の釘が、知らぬ間に抜けていたり、煉塀が崩れたりすることが多かったそうです。それで、人々は、馬の通る道筋に家を建てることを嫌いました。今治ではこの町谷のほか、東村の「間のお地蔵さん」のあたりや、桜井の唐子山から近見山(俗に明神山とも言います。)にかけても、昔はよく出たといわれています。なかでも、唐子山から近見山にかけて出たといわれる亡霊は、節分の晩に白い衣を着たお姫様が、ちりんちりんと鈴を鳴らしながら現われたそうで、これに出会うと凶事に遭遇することが多かったため、人々が非常に忌み嫌ったそうです。このような首なし馬にまつわる類似の伝説は、全国的にかなり残っており、不遇な最期を遂げた名士の命日に当たる日とか、節分や大晦日の晩に出ることが多いようです。なかには、蹄の音を聞いただけで大病にかかったり、死んでしまうような例もあるそうです。
 
所在地:今治市町谷
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