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97.衣干山のいわれ
 鳥生の衣干(今の衣干町2丁目)に、俗に衣干山(衣干八幡大神社が祭られているところから衣干八幡山ともいいます。)という小高い丘がありますが、この衣干山が出来たことについて、次のような伝説が残っています。
 慶長7年(1602)から9年(1604)にかけて、藤堂高虎が今治城を築城した際、かつて村上武慶、福島正則、小川祐忠等の諸侯居城であった桜井の古国分の国府城(唐子山頂にありました。)をこわして、石材土砂を運搬させましたが、その中継所に当たった箇所で、ここに土がこぼれ落ちて、その土がたまって出来たものだということです。
 今一つは、運搬の途中、築城の土が間にあい、不要になったので、他に置いては具合が悪いというので、ここへ積んだため、小高い丘になったのだともいわれています。
 いずれにしろ、地質学的には、このあたりの土とは質が違うのは事実のようです。
 なお、『衣干』と呼んだわけについては、「17龍登川と観音さん」と題して既に紹介しましたが、海から龍登川を伝って作札山に上った龍女が、衣を干したからだといわれています。また、この丘は、立派な松林になっていますが、昭和50年(1975)に今治市の指定保存樹となっています。
 
所在地:今治市衣干町
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98.唐子山のいわれ
 国府城(標高105メートル、別に国分山城、府中城、天子山ともいいます。)のあった国府山を別に唐子山といいますが、これには次のようないい伝えが残っています。藤堂高虎が今治城を築く際、礎石や城壁を取りこわして運んだあと、山頂に松を植えましたが、それが遠方から眺めた時、いかにも唐風(中国風のこと)の髪の結い方である揚げ巻き(子供の髪の毛の結び方の一つ)の装いとよく似ていたので、唐子山と名付けたのではないかということです。
 なお、この唐子山一帯は、古い文化財が沢山あり、史跡めぐりには格好の地とされています。
 
所在地:今治市古国分
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99.近見山のいわれ
  標高244メートルの近見山は今治のシンボルであり、ちょっと小高い所に上がればどこからでも大概見えます。瀬戸内海国立公園の特別地域に指定されるだけあって、山頂から眺められる瀬戸の島々、来島海峡、今治の町の景観美は実にすばらしいものがあります。この山は、他に石井山とか明神山ともいいますが、やはり、近見山という名で親しまれています。昔、室町時代のころには、石井山城とか明神山城といって、山頂は城になっていました。  ところで、この近見山という呼び名ですが、これは、桜井の唐子山(国府山)から見て、手に届くように近くに見えたから、昔の人がこのように名付けたそうです。―一説には、国府のあった場所から見て、近くにあったからだともいわれています。―別に、波方町に遠見山(標高156.3メートル、正式には海山ともいいます。)という山がありますが、これは、近見山に対して唐子山から見て遠くに見えたので、このようにいうのだそうです。
 
所在地:今治市近見町
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100.夫婦山のいわれ
 昔、新谷(旧清水村)の長山に、大変正直で親切な夫婦が住んでいました。この正直者の夫婦は、百姓をしていましたが、だれにでも親切で、村人たちが膳椀を借してくれるように頼むと、何人前でも、いつでも快よく貸し与えました。村人たちは、百姓の分際で何でこんなに物持ちになるのだろうと不思議に思い、そのわけをいろいろ尋ねましたが、一向に教えません。どうしても知りたいと思った一部の村人たちは「膳と椀を借してほしい。」と言ってあとをつけて行きました。そんなことを知らない正直者の夫婦は、いつものように金の鳥を呼び出して、膳と椀を借りました。後日、それを見た村人たちは、正直者の夫婦のまねをして、いろいろな膳と椀を借りました。しかし、欲の深い村人たちは、何一つ返すことをしませんでした。怒った金の鳥は、その後、姿を現わさなくなりました。後悔した村人たちは、正直者が亡くなった後も、2人の功徳を慕って、2つの連なる小さい山をつくって、ねんごろにお祭りしました。今も夫婦山と呼んで、この小さな2つの山は残っています。
 この伝説は、全国的に有名な椀貸し伝説の筋を、少し変型したものといえましょう。

 
所在地:今治市新谷
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