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92.大神宮さんの大岩
 上徳(旧富田村)の氏神様に当たる三島神社の南隅に、俗に大神宮さんの岩(天皇さんの岩ともいいます。)という大きな自然石があります。この岩は、昔、あるお姫様が頭に乗せて遠方から持ってきて積み重ねたものだそうで、日照りが続くと雨乞いのため、この岩の上で舞をまったと伝えられています。−また一節には大三島の神様が、金襴に包んで袂へ入れて持ってきたとか、天下った石だとも言われています。−このように勿体ない岩であったため、子供がこの岩の上にあがると腹痛をおこすことが暫々あったと言われています。
 また、大晦日の晩に、三島神社の氏子の前を金の車が、カチンカチンと独特の金属音をたてながら通ることがあり、この音を聞いた人は、翌年は幸せが訪れるか、災いがやってきたそうです。とりわけ、正月が出来にくいような貧しい人が車の音を聞くと、翌年は暮らしむきがよくなったと言われています。これは、高貴な人が三島神社に参詣される途次の車の音ではないかということです。
 風化されて自然に出来たものでしょうが、車が通ったレール跡と言われるものが大岩に残っています。

 
所在地:今治市上徳
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93.膳椀を借してくれた大岩
 昔、上徳の御当さんの前夜に、里人の代表者が揃いの羽織袴で大神宮さんの岩の前に行き「明日御当さんをいたします。つきましては、膳と椀を何人分お借し下さいますようにお願いします。」と頼むと、翌朝にはその数だけ整然と岩の平らなところに揃えていてくれていました。なお、この膳椀が出る朝は、決まって金の鶏がコケコーコーと時を告げてくれました。そして御当さんが済んだ翌日礼を言って返すと、いつの間にかそれが石の下に入って、またもとのようになくなってしまったそうです。里人は毎年御当さんの時には、この便利な膳椀を利用していました。ところが、ある不心得者がいて、破損した膳椀をことわりもなしに返したためー一説には破損した膳椀を全然返さなかったためとも言われています。ーそれ以来、いくら頼んでも出てこぬようになり、金の鶏も姿を現さなくなりました。
 このように祝儀や法事等で、家に人寄せがある時に膳椀を頼むと借してくれたといったような伝説は、全国のどこにでも数多く見られます。とりわけ、大きな石や塚(特に古墳)深い淵、祠跡のようなところには、こういった類似の伝説が多いようです。このあたりでは野間の塔元、新谷の長山の夫婦塚、矢田の奥矢田の塚穴、高地の埋塚、玉川町の小鴨部の砥石塚、朝倉村朝倉下の樹之本等の塚穴や古墳、波止浜沖之町円蔵寺裏山の祠、大西町山之内の重茂山中腹の七つ岩、等にこの膳椀貸しの伝説が残っています。

 
所在地:今治市上徳
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94.雨乞いの石
 昔、越智郡朝倉村の多伎川の水源地(頓田川の支流の南側)古谷の深い谷の巌の上に、稲妻のように毎夜光輝くものがありました。ある時、そこから、素晴しい管弦楽の音が聞こえて、大空から雲に乗った竜神が舞い下り、「われはこれ滝の神なり、この巌は潔白清浄の地なれば、われこの地に住まわんと欲す。」と言って、その姿を消しました。その竜神がいた跡に現われた石を、里人は影向石と言って崇排し、その後、この霊地にお社を建ててお祭りしました。−影向石は別に川上の巌とか、奥の院の薫岩といって、現在の多伎神社(滝神社とも書く)の本社より7.8丁奥の馬の背というところにありますが、高さ1丈5尺(約4米50)、横2丈(約6米)にも及ぶ奇岩です。ーこのあたりを古谷というのは、龍神のいたもっとも古い谷というところからきていると言われています。その後、早魃の時に、里人たちがこの霊岩の上で柴の葉を焚いてふすべ、雨乞いの祈願をすると霊験があって、雨をいただける時には岩の間から雫が滴り落ち、大雨になったと言われています。実際に、それまで草木も枯れ果てんばかりの炎天続きで、雲一つないようなお天気であったものが、雨乞い祈願をしたところ、急に馬の背のあたりが一天俄かにかき曇り、雨をいただくという霊験を受けた古老もいるようです。ところで、この雨乞い祈願は普通1週間と言われ、紙を供えて験するのがならわしでしたが、雨がいただける時は岩の下に受ける紙の上に、岩の雫がぽたりぽたりと落ちて紙をうるおすそうで、1枚うるおせば1日目に、2枚なれば2日目に、3枚なれば3日目にといった具合に、枚数に応じて雨を降らす日が、大体占えたと伝えられています。(また、別に雨乞い祈願をすると、1週間の中の日には必ず雨をいただけたという説もあります。)なお、滝の宮とか、滝神社という名の起こりは、この岩が雨が振り出すと滝になったところからきていると言われています。ある旱魃が1年ほど続いた時に、今治藩の歌人町野政胤という人が祈雨の歌として
 名にしおば 四方の田の面の うるふ(う)まで 水せきくだせ滝の三やしろ
 と詠じ奉ったところが、このあと雨をいただいたと「愛媛面影」巻2、46(半井梧著者)に記されています。

 
所在地:今治市古谷
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95.松たけ石・夜泣石・大亀石
 越智郡朝倉村古谷の多伎神社にはいろいろ変った石があり、また、その伝説が残っていますので、ここでその2、3を紹介してみましょう。多伎神社の前の橋を渡ると、右側に松たけに似た石があり、人々は、この石のことを『松たけ石』と呼んでいます。昔、この松たけ石を今治藩の大名が参拝になった時、見事な石だと大層気にいり、持ち帰って江戸の屋敷にすえられました。
 ところが、間もなく大名の奥方がひどい腹痛を起こし、どんな薬も効目がなく大変お困りになりました。ある夜のこと、この石が、大名のまくら元で、「元の多伎宮へ帰りたい。」と何度もささやくので、不思議に思って、さっそく今治の港まで返され、古谷の人々によって元のように多伎神社に安置されました。奥方の病気も同時に全快したということです。
 この川の清流には、長い間に水の浸蝕をうけて、変った形をした珍しい石がよく見られます。ところが、この石を家庭に持ち帰ると、不思議に腹が痛くなって困るので、また返しに来る人が多いそうで、だれいうとなしに「多伎宮の夜泣石」と呼んでいます。再び返しに来た石を、多伎神社の社前の参道に順々に並べているのも、なかなか変った風景といえます。最近は石ブームの影響をうけてか、ここの石を持ち帰りそのままにしている不心得者もいるとか。それで地元の古谷のほうき桜観光協会でも、石を取ってはならぬといった立札を立てるとともに、取締りにも当たっていますが、守らなかった者が多かったのか、従前ほど変った石が見られなくなってきているようで、全くなげかわしいことです。
 今一つ、松たけ石の近くに『大亀石』と呼ばれるとても亀によく似た石があります。この大亀石は明治29年(1896)8月に神園が出来た時に、村上清住老神官が噴水に一段の趣を加えるために、亀の口から出すようにしてはという試みから、里人とともにすえたものです。この大亀石は自然の石で、加工したものではありませんが、いかにも亀とよく似た形をしており、珍しいものといえます。村上神官が、今の多伎池の樋尻のほとりの川の中にあることを予言して、掘り当てたものだといわれています。この大亀石は、伝説というよりも、偶発的な出来事というべきでしょうが、ちょっと変った話なのでとりあげてみました。
 
所在地:今治市古谷
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96.今治城の石
 今治城を築く際、もっとも苦労をしたのは、石垣用の大きな石を運び入れることだったといわれています。藤堂高虎は石材を集めるため、米と交換してやるという御触れを出して人々の気持ちを引き付けました。この御触れを聞いた人々は、船や生竹で編んだいかだで我勝ちにあちこちから大石を運びました。ある程度集まったところを見はからい、「石はもういらね。捨てるのはよいが、船の通る海中へは航行の邪魔になるから捨てるな。さもなくば持ち帰れ。」と命じました。船頭たちは持って帰るに帰れず、いたし方なく海岸に積み上げて帰りました。今治藩の方ではさっそく石垣に失敬したそうです。
 なお、築城に際して築城奉行として高虎の妹婿に当たる家老渡辺勘兵衛を、また、普請奉行に木山音頭で有名な木山六之丞を当てたということです。今治城の東入口に『勘兵衛石』と称する大石(高さ2.3メートル、横幅4.55メートル、奥行き0.61メートル、重量16.5トン)があります。これは渡辺勘兵衛のさしずで、ある所で見つけたものを大手口鉄門の見付けに置いて威勢を示したものだということです。ちなみに、渡辺勘兵衛は多田満仲に仕え、四天王の一人といわれ、鬼退治で有名な渡辺綱の子孫で、摂州(今の一部は大阪府、一部は今の兵庫県に属する。)の出身といわれています。また藤堂高虎の重臣として、戦略にたけるとともに勇敢な将士であったという記録が残っています。
 
所在地:今治市通町
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