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82.天皇松の由来
 国分(旧桜井町)の四国八十八か所五十九番札所の国分寺(真言律宗)境内に天皇松と呼ばれる松の木があります。寺伝によると、元の松は、聖武天皇(奈良時代、第四十五代の天皇、国ごとに国分寺、国文尼寺を建てることを命ずるとともに、奈良に東大寺を建て大仏を完成させたことで特に有名です。)が孝謙天皇に位を譲られ、上皇になって間もない天平勝宝三年(751)にご病気になられた時、新薬師寺で四十九人の高僧が集まって、ご病気平癒を祈る大法会がありましたが、桜井の国分寺でもこれに合わせて同様の行事を行い、その際一本の松を植えたそうです。これが俗にいう天皇松(一代目)です。
 その後、代わりの松が植えられ、大人が五、六人でかかえるくらいの大きさにまで成長しましたが、白ありが巣くって傷んでいた上、昭和二十八年(1953)の台風で倒れ枯れてしまいました。今の松は、その後、天皇陛下がご来県の時、お手まきになった松を植樹したものです。現在の松は三代目のものではないかということですが、正確なことはわかりません。古木も寿命があるのですから、子松、孫松と代わりの松を植えておくということは、語り継がれてきた伝説を継承していく上で意義のあることだと思います。

 
所在地:今治市国分
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83.三本松の由来
  桜井の旦に三本松というところがあります。地名のとおり、天満宮の御旅所に三本の松の木があります。この松は、いずれも二代目だそうで、真ん中の松は寿命がきて、明治の終わり頃に、両端の二本は第二次世界大戦末期に供出のためにそれぞれ切られ、その跡に植えられたものです。元の松はみなかなりの樹齢で大人が三かかえもするほどの巨木だったそうです。誰がいつごろなぜ三本の松を植えたかは、確実なことはいえませんが、一代目が相当昔に植えられたことと、小字名がこの三本松にゆかりがあることだけはほぼまちがいないようです。なぜ植えたかについては、村人が樹齢の長いのにあやかって、村がいつまでも栄えるようにという願いをこめたものではないかといわれています。また、三はおめでたい数字なので三本植えたと思われます。三方を田園に囲まれた位置にあって、かなり目立つ高さにまで成長しており、遠くの方からでも見渡せることができ、三本の松のありかを示す目標またはシンボルになっています。
 この松の木の下に、明治時代の地元の郷土の俳人で松尾芭蕉を崇拝した広川九圃(本名、広川定四郎、地元旦の出身)が八十八の米寿を記念して建立した句碑に有名な松尾芭蕉の「古池や蛙とび込む水の音」が記されており、何ともいえぬ趣を添えています。
 
所在地:今治市旦
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84.阿方の一本松の由来
 昔、阿方の農協の近くに、松山の札の辻(西堀端の本町に近い所)から十里(四十キロメートル)に当たる所に、加藤嘉明による里程標識のため一本の松の木が植えられていたそうです。人々は、この松を阿方の一本松と呼んでいました。その後、寛保元年(1741)に『松山札の辻より拾里』と書いた立石が建てたれました。別に、札の辻から一里(四キロメートル)ごとに一里塚という立石も立てられました。―札の辻は現在の松山の西堀端の北すみに当たり、松山藩里程の基点になる所です。現在、札の辻の石も見当たりません。―これらの松や立石は、旅行者の便宜をはかるために立てられた道しるべに当たるものといえましょう。一本松は、遠くからでも見ることが出来るので、旅行者にはたいへん役に立ったようです。  昔は、このあたりは人家がなかったそうですが、通行人の便宜を図るため、そのうち一軒の飲食店が出来たそうです。その時分は一本松の周辺は、田んぼばかりでしたが、田で働いていたお百姓は、仕事の合い間にこの松の木の周辺に集まって、よく雑談をしたということです。しかし、夜はこのあたりは物騒な所で、強盗や追いはぎは出没して人々に危害を加えたそうです。なお、この一本松は古老の話では、幹の直径約一メートル、高さ約五、六メートルという大木で、下から大きな枝が沢山出ていて庭松のようにすごく枝振りがよかったそうです。
 
所在地:今治市阿方
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85.馬島の日向松の由来
 馬島の塩見勝衛門(馬島現住の塩見太助氏の先祖、「71大力の吉蔵さんとかじ取り」で既に述べています。)は鮮魚を仕入れによく日向(今の宮崎県)に行きました。勝衛門は日向地方の沖を航海するたびに枝振りの変った曲りくねったおもしろい松を見ては感心していました。そして、この松の木を取って帰って郷里の馬島に植えたらどんなによかろうかと、のどから手の出る気持ちをいつも持っていました。当時は何でも藩外持ち出しが堅く禁じられていた時代だけにその持ち出しにいろいろ苦慮しました。しかし、彼の熱意や日向の鮮魚買い出しの貢献度が大きかったことなどから持ち出しを許してもらうことが出来ました。−元禄四年(1692)日向の飫肥出身の今治藩の家老江島為信が、日向の地より甘薯を取り入れていることから、日向と今治藩とは親密な関係にあったので分けてもらいやすかったのかもしれません。−最初十二本植えましたが、長い年月を経るとともに島内全域に繁殖しました。また、大人で二かかえもある大木になったものもありました。島や近辺の人たちはこの松を日向松と呼んで非常に珍重しております。惜しいことに近年松食虫のために元からあった日向松は全部枯れてしまいました。今その分身が何本か残っていますが、何としても保存に心がけたいものです。
 なお、勝衛門が日向から持ち帰ったという日向松で作った大きな立ち臼が、子孫の塩見太助氏方に今も保存されています。勝衛門は今治藩のためによく貢献したと見え、後に今治藩主の命により島五代官の格式を与えられ、名字帯刀を許され、吹揚城の辰の口御門を下駄ばきでまかり通ることが出来るほどの地位を収めていたということです。
 
所在地:今治市馬島
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86.根上がり松の由来
  越智郡朝倉村山口に、四方に根をはり、かなり遠方からでも眺めることができる黒松の大木がありました。根回り約十一メートル、高さ約三十メートルにも達するといわれており、昭和三十年(1955)に県の天然記念物に指定されていました。容姿、樹勢、大きさとも県内一の折り紙の付いた立派な巨木でした。『根上がり松』と言われたのは、台地に生えたため、根の部分が大きく地上に現われ、すばらしい景観をしていることからきていると思われます。−別に一本松として遠くの方からでも眺めることが出来たので、地名と合わせて『山口の一本松』とも言われました。−ところで、樹齢について次のようなおもしろい話が残っています。
 昔、ある殿様が、領内を巡視した際、この松の根もとに腰を下ろして一ぷくしながら、村人(案内役をつとめた地元の庄屋という説もあります。)に「この松の樹齢はどのくらいか」と尋ねました。村人は即座に「千八年になります。」と答えました。殿様は「千年というのなからわかるが、八年を付けたすのはどのようなわけがあるのか。」と問い返しました。すると村人は、「松は千年を過ぎると枝が下がり出します。この松は八年前から下がり出しましたので、左様承知しております。」と説明しました。殿様は、たいそうご満悦されたということです。
 この黒松を地元の人たちは消毒するなど保存につとめていましたが、近くに舗装道路が出来たり、住宅が建てられたりして、根や枝に無理がいき、その上、マツクイ虫に侵され、昭和五十五年(1980)残念なことに枯死しました。大木、古木にはそれにまつわる昔からのいい伝えが残っているものが多いようです。したがって、それらが枯れてしまえば、伝説も消滅することになります。それだけに、大木や古木は出来るだけ大切に保存するように心がけたいものです。近年、お宮やお寺等の有名な大松がマツクイ虫のために次から次へと枯れつつあるのは惜しいことで、何とかしたいものです。
 この黒松の下にあった所に「金比羅大門江廿四里、多伎宮江拾二丁、和霊宮江六拾丁」の道しるべ(慶応三年―1867―)や「根上がり松」と記された記念碑(昭和三十一年―1956―)が建っています。
 
所在地:今治市山口
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87.てんぐ松の由来
 菊間町種の貴布禰神社の山道ぞいの境内にてんぐ松というとても大きな松の木がありました。このてんぐ松は、神社のシンボルとして人々に親しまれていましたが、惜しいことに、昭和五十年(1975)の三月にマツクイ虫と老衰のため根こそぎ倒れてしまいました。何せ樹齢が三百年(五百年という説もあります。)ほどあったといわれ、高さ約三十メートル、根回り約六メートルもあり、四方八方に根を張り出して、それはそれは見事なものでした。ところで、この松の先代か先々代のてんぐ松に次のような話が残っています。
 昔、京都の鞍馬寺(貴布禰神社の末社)にてんぐが住んでいました。てんぐは、牛若丸(源義経の幼名、実際はこの時分は遮名王と名乗っていました。)に、貴布禰の滝で行をさせ、武術を教えていました。特に、鞍馬寺の近くの貴布禰神社の参道にてんぐ杉があり、ここで、飛行自在のてんぐは、てんぐ飛び切りの法を牛若丸に伝授したそうです。後に、牛若丸が、京の五条の橋の上で演じた弁慶との立ち回りや、成人し義経として活躍した源平合戦の八艘飛びなども、ここでてんぐに仕込まれた成果といえます。ところで、京都の貴布禰神社を菊間町の種に勧請した時ー菊間町の奥山の高仙山頂から留山に移り、現在の地には嘉慶元年(1387)に移ったそうです。−鞍馬のてんぐの仲間がやってきて、境内の大松と高仙山の大楠の間、約3キロを行き来するようになりました。それで、村人は、いつのころからか、大松を「てんぐ松」、大楠を「てんぐ楠」と呼ぶようになったということです。
 てんぐ楠は、明治40年(1907)に伐採して今はありませんが、古老の話では、根元のあたりの木の回りは、大人8人(一説には13人ともいっています。)もでかかえるくらいの大きさだったといわれます。
 てんぐ松は倒れる数日前に貴布禰神社の総代さんが、松の根元に地割れが出来ているので、関係者に早く切らねば倒れてしまうと話していたそうです。山道の近くの人が避難した直後、大音響とともに倒れたそうですが、山道ぞいに倒れたために、幸いけが人もなく、家屋にも損傷がありませんでした。地元の人は、「やっぱり貴布禰神社の神様のお陰だ」と喜んでいます。故赤尾太付雄宮司さんのお話では、現在貴布禰神社に残っている大きな松の木の種をとって、てんぐ松の跡継ぎにしたいと考えているようです。
 
所在地:今治市菊間町種
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88.千疋峠・仏々峠の桜
 昔、長慶天皇(1343〜1394)が、この地方に御潜幸になられたことがありましたが、天皇は牛(馬と言う説もあります)に乗られて、奈良原山(標高1042米)まで登られたそうです。因みに、長慶天皇は、南北朝時代の第98代の天皇で、文武両面に秀でておられ、吉野朝廷の皇威の伸張に御尽力せられた方ですが、天皇の詳細な御行動についてははっきりしない面があり、その崩御地、御陵等についても、いろいろの伝説が諸地方に伝えられています。後に、この地の村人たちは、鈍川温泉の上流や千疋峠や仏々峠に、天皇の霊を慰めるために、吉野の花になぞられて染井吉野桜を植えました。この桜の木は、伐採は一切禁じられていたため、その後どんどん成長し、千疋峠、仏々峠ともに桜の大群落となり、桜の名所として人々に知られるようになりました。この千疋峠の名のおこりについては、この地に御潜幸せられた長慶天皇を警護する将士一千騎(千疋)が、この峠を越えたからだ(逆に細川の軍勢千騎が、この峠を越えたからではないかという説もあります。)とか、また、一説には、桜の季節に決まって来ていた某大名が、この千疋峠、仏々峠のあたりへ多くの家来を召し連れてやって来て、桜の花を観賞していましたが、ある時、「ここの桜の木へは千疋の馬を繋ぐことが出来るわい。ここをこれからは、千疋峠と名づけることにしよう。」と言ったことからきているともいわれています。この千疋峠のなるになっているあたりを、別にお茶屋とか言っていますが、これは、この峠に休憩所として茶屋を設けて、花見時分に桜見物に来る今治藩主やその家臣達に、お茶を接待したからだといい伝えられています。
 玉川小唄の一説に「桜なア、桜千疋峠仏々峠、さした盃花が浮く、それ花が浮く。」とあり、また、玉川音頭の冒頭に「桜吹雪の千疋峠・・・」とありますが、ここ数十年前までは、全くこの歌の文句どおり、満花の時節には、雲か霞かと言われるほど真白に咲き乱れて、それはそれは見事なものでした。ところが、残念なことに、この最近は千疋峠、仏々峠とも樹齢がきたためか、それとも虫がついたためか、殆どの桜の古木が枯れてしまって、昔の面影はなくなってしまいました。
 
所在地:今治市玉川町鈍川
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89.起き上った桜の木
  上徳のある田圃の中に、大きな桜(彼岸桜)の木が、黒金黐(モチノキに似た常緑の喬木)ともつれあうように立っています。この木の下は、大きな石が敷きつめられているので、木の根は浅く石畳の上をはっています。この石畳は、どうも南北朝時代の頃の誰か武将のお塚ではなかろうかと、昔から村人たちはいい伝えています。ところで、この桜の木は不思議なことに、牛馬を繋いだり、少しでも枝をはねようものなら、即座に災いがおこるといわれています。今から数十年前に、おる台風で桜の木が倒れたことがありました。畦道を通る邪魔になるというので、ある老人が、今時分にそんな迷信めいたことがあるものかと鋸を持って行ってみると、つい先まで横倒しになっていた木が、もとのように立っていたと言う奇蹟的な現象があったそうです。そこで、その石畳の下の方に、目に見えぬ霊の力があると考え、木の根っこに小さな祠(桜元塚明神)を建てて、ずっとお祭りしています。最近は、家内安全、交通安全、商売繁盛をはじめ、入学試験の合格、選挙の当選の祈願等のため多くの参詣者が見られるそうです。
 
所在地:今治市上徳
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90.ほうき桜
  昔、今治藩の大名が、多伎神社の奥の院に参拝せられたことがありました。途中、参道に木の葉が落ちていて汚れていたので、ある里人が、近くにあった桜の枝を折って、ほうき代りにして、そのあたりを清掃しました。その後で、その桜を地中に突きさしました。ところが、長い年月の間に、この桜の木は、根が出て、枝が出て、大きく成長しました。この桜の木は不思議なことに、枝が少しも横にはらず上へ上へと伸び、あたかも、ほうきのような格好になりました。そこで、里人はほうき桜と呼びました。惜しいことに近年枯れてしまいました。

 
所在地:今治市古谷
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91.楠の大樹
 別名の本郷の田んぼの中に大きな楠の老木がおい茂っています。−根回り約10メートル、高さ約22メートルもあり、昭和34年(1959)に県の天然記念物に指定されています。−これは、昔越智の大領(郡の長官)であった越智玉澄が、天平19年(747)にこの地で亡くなり、ここに葬り、楠の木をもって墓標にしたものだと伝えられ土地の人々は『樹下大明神』として崇拝しています。
 玉澄の略歴についてはいろいろいわれており、明確でない面もありますが、一般に古代この地方の国造(古代の地方長官)として政治に当たった小千命(乎致命とも書きます。)の子孫といわれ、武将として、政治家として、また文化人として文武の才があり、多くの功績を残しています。特に大山祇神社を迫戸から宮浦の地に遷し、社殿を壮麗なものにしたり、地御前として、今治市別宮の地に大山祇神社を祭った業績などは、今もこの地方の人々に深い関係があります。また、道後公園の入口にある有名な御影石の湯釜は、天平勝宝年間(749〜756)に行基が玉澄の援助を受けて作ったといわれています。
 ところで、楠の大樹については、別に奈良時代に政界で活躍した藤原広嗣の首塚の跡ともいわれています。つまり、天平12年(740)、聖武天皇の命により、広嗣を玉澄が、官軍の将、大野東人、佐伯常人、阿部虫磨等と筑紫(詳しくは、現在の福岡県北九州市小倉区)の板櫃河より肥前(今の佐賀県)の松浦郡長野郷に追いつめ、首を挙げ、がいせん後、首塚として跡に植えたものであるということです。
 いずれにしろ、この大樹は、玉澄に関係のあることは間違いないようです。このように古くからいわれのある木であることから、大蛇が宿っていたとか、木を切ると切口から血が出たとかいろいろにいわれ、この地の人々に崇排され、保護され今日に至っています。
 明治3年(1870)に役人が、農耕の邪魔になるからという理由で、これを切ることを命じ、木を切りかけた際、神職の西原正教という人が、木に抱きつき、命がけで拒んで中止させたというような一幕もあったそうです。
 数十年前まで、この木の側に墓石が見られたそうですが、木の成長とともに、木の中へ隠れてしまったということです。また、大樹のそばに玉澄の略歴と功績をたたえた石碑(文学博士、三島毅氏の撰文)が建っています。
 
所在地:今治市別名
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