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47.菅原道真と網敷天満宮
  菅公が、左大臣藤原時平のざん言により、都から九州大宰府に左遷されて行く途中、伊予の国(今の愛媛県)の壬生川沖にさしかかった時、暴風にあい、桜井の沖に流されました。ちょうどその時、漁にいあわせた里人が、志島が原の東のすみの江口という所に避難し奉り、てい重にもてなし、砂上にありあわせの船の網を丸く巻いて敷物にして、菅公をお休み申し上げ御心をお慰めしました。−志島という名は、早く安全にこの地に上陸したという願いから起こったといわれています。−菅公は、この里人の厚意に感謝し、ご自身が、かじの柄に像を刻まれ、形身に残されたそうです。里人は、これを神像として祭り、網敷天満宮と呼びました。また、この時、菅公は潮でぬれた衣と太鼓を浜辺の岩に掛けて干されましたが、今残っている衣干岩と太鼓岩は、その名残をとどめるものだといわれています。例祭の時には、この衣干岩に氏子の人々が鮮魚やその他いろいろな品々を献上するとともに、神輿渡御の第一のお旅所(神輿をしばらくとめておく所)としており、着船のいわれのある昔を追慕しております。
 菅公の風波による遭難の伝説は、今述べたよな京都から九州大宰府に左遷された時のものが最も多いようですが、そのほかに、讃岐の国司時代に伊予の国に来られる途次に起こったという変った伝説もあります。
 なお、菅公の風波による遭難の伝説は全国的にも多く、綱の代りに網を敷いたり、引いたりしてもてなしたといわれる網敷天神、引網天神、弓を敷いて休んだ跡だとされている弓敷天神、くつを脱いで掛けた場所だおいう沓脱天神、履脱天神、腰を掛けて休んだという腰掛石などその例は多いようです。
 ところで、菅公と梅は関係が深いということは皆さんもご承知のことと思います。この天満宮でも梅にちなんだ行事が残っております。一月三日にお口開祭といって参拝する子供の額に菅公ゆかりの梅八の神紋を押してもらい、神生を祈る行事が創社以来の神事として続いております。また、菅公の命日といわれる一月二十五日は、梅花祭という行事が行われています。この日は境内にある梅林の梅を神前にお供えしてご祈とうをし、婦人会の人たちによる俳句会が催されます。これは、しばらくとだえていたものが最近復活した行事だということです。
 菅公をお祭した社は、北野天満宮(北野神社)大宰府天満宮(大宰府神社)を始めとして、天満神社、天満社、天満宮、天満天神宮、天満天神社等々、いろいろに呼ばれ、日本全土いたる所にお祭りされており、大小あわせると、実に一万数千社に及ぶといわれています。このように菅公がいたる所で祭られるようになったのは一体なぜでしょうか。配所において悲運のうちに亡くなられた後、大日照りや落雷や暴風雨が再々起こり、一般の人々を苦しめたり、菅公の左遷に関係した上層階級の人たちが、相次いで不慮の災難にあうなど、奇々怪々な事件が起こったことから、人々はこれを菅公のたたりとうわさするようになったからだといわれています。菅原道真の伝説については「天神伝説のすべてとその信仰」(山中耕作編大宰府顕彰会発行<平成四年>)に全国各地の伝説が詳しく出ています。
 
所在地:今治市桜井
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48.菅原道真と碇掛天満宮
 仁和四年(888)菅公が、是善公が以前伊予の国司をされていた関係で、伊予の国を視察されました。その帰途、三津の港を船出し、北条の沖合に来た時、急に暗雲たれこめ、嵐となり、大西町星浦あたりまで船が押し流され、航行不能となりました。そこで致し方なく、菅公一行は星浦の砂浜に近いところに碇を下して船をつけられ、近くのとある朽ちはてた苫屋で暫くの間、休まれました。現在星浦にある碇掛天満宮は、以上のようなところからその名がおこったと言われています。それから、菅公はある長者の邸に移られましたが、その時、丁度梅の花が今を盛りと咲きほこっている風景を見て「古里を思ひわびなん梅の花、木毎に咲きて如何に匂はん」と歌を詠じました。後に大宰府に配流される時にも「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花、あるなじなしとて春な忘れそ」と有名な梅樹の歌を残しておりますが、真偽のほどは別として、一説にはこの両者の歌の梅は同じものを歌ったものではないかと言われています。  この地方にもまだ菅公をお祭りしたお社がぼつぼつ見られ、面白い伝説のネタがあることと思いますが、ここではこのあたりで筆をおきます。
 
所在地:今治市大西町星浦
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49.藤原佐理卿と神額
 玉川町の四国八十八か所五十八番札所仙遊寺(真言宗)のある作札山の参道に、弘法大師の御加持水というのがあります。ここは、その昔、弘法大師がこのお寺を建立のため各地を巡り歩き修行されていた途中、ひどくのどのかわきをおぼえられたのに、あいにく水がなかったので、錫杖(お坊さんの持ち歩くつえ)でもって清水を掘り出された所だといわれています。−別に、このあたりの里人が日照りと疫病(悪性の伝染病)に悩んでいたので、霊泉を教えたともいわれています。−大師がこの水を加持して病人に施されると、たちまち病気が治ったそうです。この水は四季を通じてかれることがなく、清らかな水が、常に岩の間からこんこんわき出ており、お遍路さんののどをうるおし、疲れをいやす憩いの場とされています。また、作礼山山頂にある仙遊寺で、夏の日照りで、水がかれた時には、この御加持水が利用されているそうです。また、郷土の学者として有名な半井梧庵(1813〜1889)の『愛媛面影』に「日吉村の山際にあり、石の井筒有て、その中より、霊泉湧出て夏冬涸る事なし、尤茶を烹によろし……」と書かれている、茶人に親しまれている茶堂の井筒(今治市山方町一丁目にあり、山方の僧都の井戸ともいわれています。)も、この弘法大師の法力によって掘り出されたものだという古老のいい伝えがあります。
 その他、茶堂の井筒と並ぶ井戸で有名な、東予市楠の踏切の近くの道ばたにある臼井の井戸、菊間町種葉山(旧亀岡村)の青木地蔵(後述の「弘法大師と青木のお地蔵さん」に詳しい。)のはたにある井戸なども、弘法大師が四国霊場開創の途中で掘られたという伝説があります。このような弘法大師の法力によりわき出した清水、井戸、泉、池などは、全国いたる所にあります。とりわけ、有名なものを弘法大師に結びつけている例は多いようです。
 また、水については、身なりの卑しい僧侶に扮装した弘法大師が、水を与えてくれるように頼んだところ、遠くから運んできて清水を惜し気もなく与えたので、その礼に清らかな水の出る井戸を掘り当てられたが、逆に、惜しんで与えなかったために、さび気のある水にしてしまったという話も、全国的によく見られるものです。このあたりでも、松木付近(旧富田村)で、あるお百姓がさり気なく断ったがために、そのあたりの水を、金気水にしてしまったという話が残っています。
 
所在地:今治市神宮
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50.弘法大師と御加持水
 西暦年中の昔、名筆家である藤原佐理卿が太宰大弐の任が満ちて筑紫(九州の古称)から都に帰る途中、瀬戸内海の海上が毎日ものすごく荒れたため、あちこちで仮泊し大変弱ったことがありました。佐理卿は、神の祟りのあるようなこともないのだがと頭を痛めましたが、ある夜、夢に気高い白髪の翁(三島大明神)が現れ「このように、毎日風浪がおさまらないのはわけがあるのだ。全国どこのお宮にも神額が掛ってあるが、この大山祗神社のみまだ掛っていないのは全く不本意なことだ。しかし、そうかと言って誰にでも書かすわけにはいかず弱っているところ、丁度、汝が通りかかったので、呼び止めるためにこのような方法を講じたのだ。是非筆を執って欲しい。」と言う信託がありました。早速、佐理卿は身を洗い清めて端座し、船板を利用して力強い筆づかいで『日本総鎮守大山積大明神』と言う神額を書きあげ、大山祗神社に奉納しました。すると、不思議なことに、先ほどまで荒れ狂っていた風浪がぴったり止まりました。お陰で順風に帆をあげて、無事に都へ帰ることが出来たと言うことです。この神額が、現在大三島町の大山祗神社にあるものだと言われ、重要文化財に指定されています。  ところで、佐理卿がこの神額の筆を執った場所については、諸説粉々としており、いずれもはっきりと断定することは出来ませんが、一説には、越智郡大西町九王の品部川裾近傍ではないかと言われ、ここから流したものが、神の加護によって大三島町宮浦の海岸に流れつき、大山祗神社の神官によって取り上げられたそうです。この伝説を裏付けるような神事の神舟が一旦止んでいたのが、最近復興し、今治市神宮の野間神社の春の大祭の催し物となっています。珍しい神事なので次に紹介しておきます。  この野間神社の宮出しは、神輿が出る前に大名行列の奴、獅子舞、櫓太鼓等とともに、異色の神舟という出し物が登場しました。この神舟は、舳先から艫まで四間余りもあり、御簾が下り、高欄がかかった豪華な屋形舟で、中央には列の『日本鎮守大山積大明神』という神額が置かれ、神額をはさんで等身大の白髪の翁である三島大明神と、筆を手にした佐理卿が向かいあって坐っています。舟の下に波を型どった垂れ幕があり、氏子である大西町紺原の生年が上手に操りながら、石段をゆっくり降りていくようになっています。舟歌にあわせて進んで行く様子は、実際に舟が波間に漂っているようで、絵巻物さながらの壮観な感じを抱かせます。この神事は今後末長く続けてほしいものです。
 
所在地:今治市玉川町別所
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51.弘法大師と青木のお地蔵さん
 菊間町の種に円福寺の境外寺として知られる青木地蔵堂があります。昔、弘法大師が四国巡行の途中、この地に立ち寄られ、村人に有難い仏の道についてご説教されるとともに御手ずから地蔵菩薩像を納められました。後の人が「青木地蔵」(青木のお地蔵さん)と呼ぶようになったのはその際、記念に青木を植えられたからだと言われています。昔ほどではないにしても、今でも青々とした木々が茂っています。また、この地蔵堂の近くに「青木水」と呼ばれる弘法大師の御加持水があります。この青木水についても次のようないわれが残っています。丁度弘法大師がお立寄りになった頃、このあたり一帯は大日照りで、井戸水もかれてしまい人々は飲み水の不足で困っていました。このことを知った弘法大師は、ご祈とうをされ災難を除き願いをかなえられるように杖でもってこの地をたたかれ、村人に掘ってみるように教えられました。村人が指さすところを少し掘ると泉のような清水がこんこんとわき出ました。それ以来、どんな日照りの時でも水がかれることなく四季を通じてきれいな水が出るので、人々に大変喜ばれています。弘法大師が、この水を加持して病人に施されると病気がたちまち治ったそうで、今でも、この青木のお地蔵さんにお参りして御加持水を飲むと病気がよく治ると言われています。特に、下の病には霊験あらたかと言われ、「腰・下のお地蔵さん」とも呼ばれます。近郷近在の人は、いうに及ばず、松山あたりの遠隔の地からも参詣する人があります。また、御加持水を瓶に入れて持って帰る人もいます。とりわけ、足にはご利益があると言われ願いがかなえられ治ったお礼として、ぞうり、松葉杖・普通の杖・とれたギプス等をたくさん献納しています。毎月二十四日は縁日とされ参詣者でにぎわいます。この御加持水は夏は冷たい水としてのどをうるおすのに最適とされ、冬はあたたかい水として重宝がられます。また、側にある弘法大師の石像に自分のなおしてもらいたい箇所に酌で水をかけるとご利益があるといわれています。
 
所在地:今治市菊間町種
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52.弘法大師と食わずの芋
 通りがかりのみずぼらしい旅僧の姿に身をやつにした弘法大師を親切にしたか冷遇したかによって、恩恵を受けたり災いを受けたりという伝説は、水のほかにもさまざまのものが各地に残っています。年に二度も三度もなるような栗、柿、あんず、種のない柿、一たん煮たり焼いたりした栗の実から芽を出したという栗の木、あくだしのいらないあわび等にしてくれたのは前者の例であり、渋いなつめや、桃の花は咲くが実はやね桃ばかり、苦い大根、石のような芋等に変えてしまったというのは後者の例です。このあたりでも後者の例として、馬越付近にこんな例が残っています。あるお百姓が、畑で大きな芋(里芋)を掘っているのを見て、一老僧に扮した弘法大師が「一つ分けてください。」と頼んだところ、「お前らのような乞食坊主が食べられるような芋ではない。」とうるさげに断ったそうです。お百姓が芋をとって帰って煮たところ、いくら煮ても、どの芋も全く石のように堅くて食べることが出来なかったとか、里人は、この芋を「食わずの芋」とか、「石芋」と名付けました。この話は、天然の不思議を弘法大師のしわざのようにいい伝えたものだと思います。食わずの芋というのは、葉は里芋のようで、根についた芋は堅くて食べることが出来ないそうで、全国的にもあちこちで見られます。
 
所在地:今治市馬越
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53.弘法大師と破られた蚊袋
 別宮の砂川町に蚊丸という小さな地名が残っています。弘法大師が四国に来られ、山野に泊まられた時に、蚊を封じられ、大きな袋に入れてこのあたりを通っていたところ、蚊袋が破れた場所だといわれています。昔はこのあたりは、昼でも木がおおおい茂った森になっていたり、蘆の生えた沼地になっていて、すごく沢山の蚊がぶんぶん音をたてて飛んでいたそうです。この蚊丸の近くにある南光坊(四国八十八か所五十五番札所、真言宗、別宮町)のあたりも、町が美化されるまでは、周囲に森と田んぼをひかえ、蚊がものすごく多かったそうで、和尚さんが本堂でお経を読んでいても、のどや鼻によくとびこむような始末だったそうです。  弘法大師は蚊袋にもう一度蚊を封じ込める予定でしたが、加持祈とうのため忙しく駆け巡っていたので、そのままになったとか、また、誰か考えのよこしまな人がいて、わざと破れたままにしたとか、いろいろ言われています。  弘法大師の伝説は、日本全国似たようなものがいくらも残っており、果たしてこんなに全国を歩きまわることが出来たか、まともに考えるとこじつけめいたところがあり、理屈にあわぬと一笑に付すような点が多いかと思います。しかし、伝説は史実からはっきり区別されるもので、むしろ我々は、我々の先祖が事実だと信じこんできた素ぼくな思想感情をくみとるところに、意義があるのではないかと思います。弘法大師の伝説は、この地方にもここで述べたもののほかにも、まだ沢山あるかと思いますが、今回は一応このあたりでとどめることにします。
 
所在地:今治市別宮町
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54.法力を使った頓魚上人
 昔、延喜の乗禅寺(真言宗)に頓魚上人というお坊さんがいました。上人はいろいろ変わったことをして、人々を驚かせました。上人が一人でお経を読むのに、いつも七人のお坊さんが読んでいるように聞こえたので、人々は『七舌上人』と言ったそうです。先にもお話したように、後醍醐天皇がご病気になられ、延喜の観音さんをご祈とうされたことがありましたが、この時、後醍醐天皇のご病気がすっかり治るように、宮中にお招きを受けたことがありました。宮中まで来て門へはいろうとした時、警備に当たっている人たちに、身分の低い田舎僧に見られ、中へ入ることをこばまれました。上人が、事の次第を申し述べると、警備の人たちが、「それほどの法力があるのなら、一度ここで何かその証拠を示してほしい。」と言いました。上人は扇子を出して、はたに咲いていた梅の花をあおぎました。すると、たちまちにして、梅の花は地上に散ってしまいました。まわりの人々がびっくりしていると、今度は地上に散っていた梅の花びらが、ひらひらと舞い上がってもとのように枝につきました。驚き入った警備人は、そのことを天皇に申し上げました。上人はお陰で宮中に迎え入れてもらい、てい重なとりなしを受け、無事病気平癒の祈とうが出来たということです。
 
所在地:今治市延喜
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55.清水の舞台から飛び降りた隆賢和尚
 江戸時代後期に、延喜の乗禅寺(真言宗)に隆賢という名僧がいました。この隆賢和尚は、ずいぶん風変わりなお坊さんで、生い立ちについていろいろおもしろい話が残っているので紹介してみましょう。樋口村(現在の波方町)のあるお百姓の家にいても百姓仕事も余りせず、いたずらばかりするので、自分の家から四キロほどの所にある乗禅寺へ小僧として預けられました。しかし、いたずらは一向にやまず、その上記憶力が鈍く、居眠りばかりしていて、お経を習ってもすぐに忘れてしまう始末、思いあまった和尚さんから破門されました。隆賢さんは、家に帰ろうにも帰られず、志を立てて京都へ行きました。修行のため、いろいろなお寺へも入りましたが、頭の悪さはどうしようもなく、ことごとく破門されました。落胆して思いあまった隆賢さんは、ある日、西国三十三か所観音の第十六番札所で、おとぎばなしに出てくる一寸法師が、お姫様のお供をしてお参りしたといわれる有名な清水寺の舞台へ上がりました。隆賢さんは、静かに目を閉じて、清水の観音さんに心願をかけました。「自分は志を立てて故郷を出て来ました。しかし、情けないことにお経一巻もよう暗誦出来ません。これでは頭をそったかいもありません。また、男児がおめおめと今更故郷へ帰るわけにもいきません。観音様、もし仏の道に使える者として役立つ者でしたら、この愚鈍なわが身を転じさせてください。生きていても何のお役にも立ちえない者でしたら、即座にこの命を断たせてください。」と言って、舞台から後ろ向きになって飛び降りました。大方の人が死んでしまうのに、隆賢さんは仏さんの加護があったと見えて、腰の骨を強く打って気絶はしましたが、間もなく息をふきかえしました。ちょうど、そこを通りかかったお坊さんに介抱され、丹波(今の近畿地方の一国、大部分は京都府、一部は兵庫県が入ります。)の山奥の、とあるお寺にひきとられました。それからは一度死んだ気持で、すべてのことに精魂を打ちこみました。苦行すること六年、観心術という人の心を見ぬく術を心得ました。久しぶりに故郷の常禅寺へ帰った時には、お寺は火事で全焼して、あたり一面焼け野原になっていました。隆賢さんは、お寺の中興のために努力を惜しみませんでした。特に荒行はすごく、手のひらの上に油を注ぐ、いわゆる手燈明を捧げて、本尊の前を行き来しながら観音経を読経しました。とりわけ、参詣人の願いごとを当てることは百発百中でした。参詣人にお説教したり、お経を読んで聞かせましたが、人々の心は自然に隆賢和尚にひきつけられました。そのため、信者もみるみるうちに増え、お寺の再建はおろか、前にもまして繁栄したということです。  この隆賢和尚の物語は、生死を越えて修行を積んだ努力が、愚鈍な人間を偉人にまでしあげたという話で、厳密にいえば史実に近く伝説の体裁からはずれていると思われる面もありますが、変ったためになる話ですので取り上げてみました。隆賢和尚については、詳しい履歴ははっきりしておらず、この物語は伝統的伝記というべきかと思います。
 
所在地:今治市延喜
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56.雨ごいに成功した光範上人
 玉川町の光林寺(真言宗、高野山派)に光範というとても偉いお坊さんがいました。後で、紹介する学信和尚、東吟和尚とともに今治三僧の一人として名高い人です。光範上人は別名俊良房ともいい、吉海町本庄の出身といわれますが、一説には、鳥生の生まれで有名な槍の名人田坂槍之助の子孫ともいわれます。上人は、書道や漢詩にすぐれるなど博学であるとともに、村人の面倒を親身になってよく見る徳の高い人でもあったので、人々から大変慕われました。  元祿六年(1693)夏のことです。このあたり一帯に何十日も日照が続きました。青田も白くなりかけ、草木も枯れかける寸前にまでなりました。この時、上人は、村人とともに奈良原山上(1042メートル)に登り、七日間おこもりをして、雨ごいをしました。雨ごいに当たって、水天宮の像を安置し、高く積み上げたまきの上にすわり、「満願までに雨を降らしてください。満願の日が来ても雨が降らない時は、私を焼き殺してください。」とお願いしたそうです。しかし、最後の満願の日がやってきても、一向に雨が降りそうになく、空には一点の曇りもありません。そんな中で、祈とうしていた上人は、みんなに向かって「雨が降ることになったぞ。みんな家に帰りなさい。早く帰らぬと祓川(奈良原山のふもとの川)が渡れなくなるぞ。」と言いました。村人は、こんなよい天気にまさかと思いましたが、上人の言われることなので、急いで山を下り、家に帰りました。ところが、村人たちが祓川を越えたあたりで、一天にわかに曇り、川の水があふれるほど大雨が降り出しました。おかげで枯れかかっていた稲田も、草も木も元気をとりもどしました。この年の秋は、大変な豊作でにぎわいました。この霊験により、今治藩主駿河守松平定陳から感謝状を賜りました。この時の「雨乞願書草」と題する雨ごい請願文は、今も光林寺に残っています。上人は、この年のほか、前後三回雨ごい祈願を行っていますが、いずれも成果を収めているということです。  なお、上人は、元祿十三年(1700)に光林寺備付けの大般若経六百巻を補修する大事業をやっています。光林寺境内に『法印権大僧都光範林洞上人』と書かれたお墓があり、最近二百五十回忌が行われました。道後の柳原一男氏は、上人の子孫に当たるそうです。
 
所在地:今治市玉川町畑寺
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57.随転和尚の入定
 昔、山方町の海禅寺(臨済宗)に東吟和尚と呼ぶとても風変わりな、そして賢い坊さんがいました。毎朝、明け方に庭に出て、東の空に向かって声高らかに笑ったそうですが、なぜそんなことをしたのかは、だれもわかりません。ただこの東吟という名前は、暁に向かって吟ずるというところからきているのではないかと思います。出生地ははっきりしませんが、海禅寺の七世壱零和尚を師として修養し、仏学に通じ、先に述べたように今治地方三僧の一人に挙げられている名僧です。ある時、大般若六百巻の釈義(文章・語句などの意義を説きあかすこと)を頼まれましたが、わずかに三か所だけ解釈しかねるところがあったに過ぎなかったというのですから、その頭脳明せきぶりがうかがえます。また、常に悟りの境地にあり、俗世間のわずらわしさを超越し、無欲を尊び、自然の意のままに生活していました。お寺で仏に仕えるほかは、黒衣をまとい、袋を胸に掛け、行脚僧のかっこうで、村々を托鉢してまわりました。  ある春の日でした。村内のお百姓が麦を干している所へ托鉢に行きました。急な用事が出来たお百姓は、麦をそのままにして近所へ行かねばならぬようになったので、ちょうど居合わせた東吟和尚に「鶏に麦を食べられぬようにしばらく番をしてくださいな。」と頼みました。東吟和尚は「心得ました。」と気軽に受け合いました。用事をすませたお百姓が帰ってみると乞食風の男が干している麦を盗んで袋に入れているのです。お百姓は「せっかく番を頼んだのに頼みがいのないだらしない坊主だ。」とさんざんののしりました。東吟和尚は、「わしは鶏の番は頼まれたが、人の番を頼まれた覚えがないぞ。」とそしらぬ風をして帰ったということです。  ところで、托鉢をしてもらった米や麦ですが、これらは貧しい人施しをする以外は、後日また困った時にもらうからとすべて預けてかえりみませんでした。そのため東吟和尚が亡くなって後に、村人たちは高徳を慕い、預った米や麦は、残らず海禅寺へ納めました。その量が余りにもおびただしかったので、それでもって八世久山和尚の時に観音堂と山門を建立したということです。これらの徳行奇特な話は「今治夜話」「続今治夜話」に詳しく出ています。  東吟和尚は、安永七年(1778)の七月二十六日にこの世を去りましたが、遺徳をしのぶため、西月東吟堂というお堂が建てられ、今もてい重にお祭りされています。また八月二十六日(従前は旧暦七月二十六日)に縁日が開かれ、『東吟さん』の名で親しまれ、露店が出て、盆踊りもあったりしてにぎわいます。
 
所在地:今治市五十嵐
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58.風変わりな東吟和尚
 昔、山方町の海禅寺(臨済宗)に東吟和尚と呼ぶとても風変わりな、そして賢い坊さんがいました。毎朝、明け方に庭に出て、東の空に向かって声高らかに笑ったそうですが、なぜそんなことをしたのかは、だれもわかりません。ただこの東吟という名前は、暁に向かって吟ずるというところからきているのではないかと思います。出生地ははっきりしませんが、海禅寺の七世壱零和尚を師として修養し、仏学に通じ、先に述べたように今治地方三僧の一人に挙げられている名僧です。ある時、大般若六百巻の釈義(文章・語句などの意義を説きあかすこと)を頼まれましたが、わずかに三か所だけ解釈しかねるところがあったに過ぎなかったというのですから、その頭脳明せきぶりがうかがえます。また、常に悟りの境地にあり、俗世間のわずらわしさを超越し、無欲を尊び、自然の意のままに生活していました。お寺で仏に仕えるほかは、黒衣をまとい、袋を胸に掛け、行脚僧のかっこうで、村々を托鉢してまわりました。
 ある春の日でした。村内のお百姓が麦を干している所へ托鉢に行きました。急な用事が出来たお百姓は、麦をそのままにして近所へ行かねばならぬようになったので、ちょうど居合わせた東吟和尚に「鶏に麦を食べられぬようにしばらく番をしてくださいな。」と頼みました。東吟和尚は「心得ました。」と気軽に受け合いました。用事をすませたお百姓が帰ってみると乞食風の男が干している麦を盗んで袋に入れているのです。お百姓は「せっかく番を頼んだのに頼みがいのないだらしない坊主だ。」とさんざんののしりました。東吟和尚は、「わしは鶏の番は頼まれたが、人の番を頼まれた覚えがないぞ。」とそしらぬ風をして帰ったということです。
 ところで、托鉢をしてもらった米や麦ですが、これらは貧しい人施しをする以外は、後日また困った時にもらうからとすべて預けてかえりみませんでした。そのため東吟和尚が亡くなって後に、村人たちは高徳を慕い、預った米や麦は、残らず海禅寺へ納めました。その量が余りにもおびただしかったので、それでもって八世久山和尚の時に観音堂と山門を建立したということです。これらの徳行奇特な話は「今治夜話」「続今治夜話」に詳しく出ています。
 東吟和尚は、安永七年(1778)の七月二十六日にこの世を去りましたが、遺徳をしのぶため、西月東吟堂というお堂が建てられ、今もてい重にお祭りされています。また八月二十六日(従前は旧暦七月二十六日)に縁日が開かれ、『東吟さん』の名で親しまれ、露店が出て、盆踊りもあったりしてにぎわいます。

 
所在地:今治市山方町
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59.気骨の人実雄上人
  明治・大正のころに佐伯実雄という偉いお坊さんがいました。実雄上人は、嘉永元年(1848)に今の上浦町(大三島)の瀬戸崎の庄屋近藤戸平の二男として生まれました。幼少の頃、家庭内の不幸続きに世をはかなみ、東村の真光寺(真言宗)の廉雄上人の弟子として仏門の道に入りました。以来この真光寺のほか、歓喜寺(町谷真言宗)、仏乗寺、(伊予市真言宗)の住職として寺の復興に尽力しました。特に建築には大変な手腕があり、大伽藍、本堂、釣鐘堂、庫裏等をあちこちの寺で建立するなど多くの功績を残しました。ところが、もともと無欲で名誉心のない人で、これらの建築物の梁などに名前を書いて残してはと人が勧めても、そんなものは書く必要がないといって断ったとか。何につけても自分の功績を残すことを極端にきらった人で、記録を残さぬ実雄上人として名が通っています。また、葬儀や法事の行き帰りに、人が人力車を勧めても、一切乗らず「わしにはりっぱな足があるのに何を言っておるか。」と反対し気骨のあるところを示したそうです。大正十二年(1923)五月、遍路姿に身をやつし、小豆島の八十八か所を銘とともに巡拝しましたが、結願の後、帰途の際、高松で急病にかかり亡くなりました。時に七十六歳でした。  実雄上人は、淡白で気骨のある反面、温厚で包容力もあったので、人々の信頼も厚く、寺の再興の費用や寄付などは、檀家はいうに及ばず、檀家でない人まで積極的に協力しています。  先にも述べたように、実雄上人は記録を残すことを極端にきらったので、記録らしいものがなく、実雄上人のことについても横顔がほとんど忘れられようとしており、一部の古老が、親やお年寄りから聞いたという程度のことしかわかりません。ここで述べたのは、実雄上人の甥に当たる拝志の馬越定氏や喜田村の故小沢喜八郎から聴取したものです。歓喜寺に『当山中興実雄上人頌徳碑』が建てられ、わずかに実雄上人の偉大さを伝えております。
 東吟和尚は、安永七年(1778)の七月二十六日にこの世を去りましたが、遺徳をしのぶため、西月東吟堂というお堂が建てられ、今もてい重にお祭りされています。また八月二十六日(従前は旧暦七月二十六日)に縁日が開かれ、『東吟さん』の名で親しまれ、露店が出て、盆踊りもあったりしてにぎわいます。
 
所在地:今治市町谷
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60.消えた鴨と自覚法師
  昔、今治の阿方に大変酒と狩りの好きな、そして非常に力が強くかっぷくのよいお百姓がいました。このお百姓は、毎晩獲物をさなかに酒を飲んでおりました。  ある日、いつもと変りなく、網と大きなかごを持って、阿方の奥の大池という池へ行きました。草むらの中に隠れて、じっと鴨がやって来るのをうかがっていると、鴨が群になってお百姓のそばへやって来ました。(一説には糸に鳥もちをつけて、水面にはってとったともいわれます。)もう大分とれたわいと、かごの中を見たところ、あれほど沢山とったはずの鴨が一匹もおりません。それからは、一匹とったごとにかごの中を確かめましたが、いくら入れてもとっている間に入れたはずの鴨がいません。お百姓は何やら気色が悪くなってきたので、いい加減で家へ帰りました。夜、寝床についたものの、昼間の鴨の幻影が目の前にちらついてきて熟睡できません。「これは、きっとわしがよく殺生するから、仏の道に入れということじゃわい。」と考えました。翌日から狩りと酒をぷっつりやめました。そして髪を切って菅笠をかぶり、脚絆甲掛に草鞋をはき、四国八十八か所、西国三十三か所をはじめ、全国の霊場の巡拝の旅に出ました。長い年月をかけて村に帰ると、さっそく阿方の大東の笠坊という所に、庵を建てて仏の道に入りました。また、自己が主体になって迷妄(物事の道理を知らなかったために持つまちがった考え)を断じ、正法(正しい教えである仏法)を覚えたいという意味から、自ら自覚と名付けました。この庵の近くに元文二年(1737)経文を地中に埋め『日本廻国供養』の碑を建てるとともに、宝暦二年(1752)には、四国八十八か所を二十一回巡礼した記念のため、平素崇拝している延命寺(四国八十八か所五十四番札所)の門前に石碑を建てました。─現在仁王門の前にあり、『南無大師遍照金剛』と書かれています。─村人からも自覚さんとか、自覚法師と呼ばれ、非常に尊敬されながら齡をまっとうしました。(宝暦四年−1754−逝去)阿方中西の小沢虎三郎氏(養子)は、この自覚法師から九代目の子孫に当たるそうです。
 
所在地:今治市阿方
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61.あめ買い女と学信和尚
 江戸時代の中ごろのことです。ある寒い夜ふけに、旭町のあめ屋の惣兵衛さん方へ、白い着物を着た青ざめた女の人がすうーと音もなく入って来ました。そして一文銭を入れた茶わんを突き出し、あめをさすので、惣兵衛さんは、おそるおそるあめを入れて渡してやりました。女は、また静かに消えるように出て行きました。それから、毎晩同じころ、決まって現われ、一文銭であめを求めては消えて行きました。このようなことが六晩続きました。七日目の晩は、いつものとおり、茶わんをさし出しましたが、一文銭が入っておりません。もじもじしながら、何か言いたそうな様子、かわいそうに思って惣兵衛さんが、あめを少し余計に入れてやると、しきみの葉を一枚置いて立ち去りました。女は蒼社川を渡り、北鳥生町三丁目の明積寺(真言宗)─本町四丁目の円浄寺(浄土宗)だという説もあります。─の境内に入るとポッと消えました。じっと耳をすますと、まだ土の柔らかい新しい墓の下から声がもれてきます。あわてて和尚さんを起こし、近くのお百姓を集め、墓を掘り起こしてみると、生まれて間もない男の赤ん坊が、死んで冷たくなった若い母親のかたわらで、火がついたように泣きながら、惣兵衛さんんお作ったあめを無心にしゃぶっていました。和尚さんが調べてみると、ちょうど一週間前、赤ん坊が生まれるまぎわに死んでいることがわかりました。棺おけに入れてあった六文銭の袋はからっぽになっていました。和尚さんは、この赤ん坊を天から授けてくださった子供だと、乳母をつけて大事に育てあげました。この赤ん坊は、後に名僧として、また学問を始め、書道や絵画にもすぐれた博学多識の人として、その名を知られた学信和尚(1722〜1789)だということです。参考までに、次に学信和尚について簡単にふれておきます。  俗名を市之助といいましたが、別に正蓮社行誉敬阿、または無量とも呼びました。幼少より成人に至まで、本町の真誉和尚について仏道をきわめ、二十歳の時に江戸の増上寺で浄土宗の教学を会得、以後、越智郡の岩城島の浄光寺(浄土宗)、京都の鹿が谷の法然院(浄土宗)、広島の宮島の光明院(浄土宗)、松山の長建寺(浄土宗)、大林寺(浄土宗)等の有名なお寺の住職をつとめました。世に高僧の誉れ高く、徳行奇特な話(道徳にかなった正しい行いや普通一般の人々には行いがたい事をする様子についての話)は枚挙にいとまがないくらいですが、その中から二つほど例を挙げてみます。学信和尚は、すばらしい体格の持ち主であるとともに、勇猛果敢なしんの強い人物だったということで、本町の円浄寺にいた時分には、三回にわたって昼夜断食して、玉川町桂の釈迦瑞像に祈願をこめたという記録が残っています。また松山の大林寺の住職に、一士人が罪を問われて獄に下った際、情状酌量の余地ありと、藩主定国にしばしば助命を請いましたが、僧徒が政道に預かるべきではないということで、意見が入れられず、そのために、住職のかいなしと、ぷいと寺を飛び出して、二度と同寺に帰って来なかったという話が残っています。それから、同じ大林寺にいた時分に大かんばつが続いて農民が苦しんだことがありましたが、そのたびに彼は、昼夜を分たず、寝食を忘れて無量寿経を読誦し、松山領分に限り慈雨を降らしたという口碑が残っています。  このように有名な学信和尚ですが、祖先や誕生については諸説紛々としており、全く伝説の域を出ません。そこで次に、今少し学信和尚の誕生について、あれこれ述べてみましょう。  学信和尚については、伴蒿蹊(1733〜1806)、学信和尚より誕生は十一年、歿年が十七年遅れているだけでほとんど同時代の人です。歌人、国学者として有名で、歌論書、随筆、伝記研究など著書も多くあります。)の『続近世畸人伝』巻三─今治編年史料第三十三巻に収録、今治市立図書館蔵─に「学信和尚は伊予国の人なるが、其の生るるはじめいとあやし、今治の浄土宗の寺に、新亡の婦人葬りしが、其の夜、赤子の声頻りに聞えければ、住僧あやしみて、声をしるべに尋ねしに、彼の新亡の墓なりしかば、いそぎ堀り穿ためして棺をひらき見るに、男児生まれ出でてありけり。住僧喜び、こは我が授かり得し子なりとて乳母を付けて養ひしに、よく生ひたちて、此の和尚となりたり……」とあります。先に述べたのと、話が多少違っているところもありますが、臨月で亡くなった母親の墓の中で、赤ん坊が出産、泣き声をあげていたので、掘り起こして育てあげたという筋は、全く同じです。『続近世畸人伝』に学信和尚の誕生の地が、浄土宗の寺とありますが、これは、彼が若い時分に円浄寺で育ち、修養したからこのようにいうので、実際は、北鳥生町三丁目の明積寺と見るむきが多いようです。  ところで、赤ん坊とともに葬られた母親が、愛児を育てるために、毎夜あめ屋に通ったという類似の伝説や民話は、全国的に多いようです。愛媛県下でも松山市や西宇和郡等に似たような話が残っているほか、長崎県の光源寺(真宗本願寺派、長崎市伊良林一の一二七番地)には、『産女幽霊木像』なるものが現存しています。また、静岡県の榛原群金谷町(東海道沿いの町、東海道五十三次の第二十五番宿駅として有名です。)では、妊婦が山賊に襲われ、通りがかりの里人が赤ん坊を水あめで育てたという伝説にちなんで、今も子育てあめなるものが売られています。昔の人は、生まれかわりを信じており、なかでも胎児や赤ん坊で死んだものは、もっとも生まれかわってきやすいものと考えていたようです。したがって、この胎児や、赤ん坊の霊力が復興するという信仰が、このようなあめ買い幽霊の話につながったものといえましょう。また、この種の伝説の主人公のほとんどが、高僧とか、知識人などの有名人になっているのは、傑出した人物に対する庶民の要求やあこがれの結果生まれた誇張にもとづくものと考えられるのではないでしょうか。学信和尚の遺弟にあたる慧満(厳島光明院の住職として有名です。)等が発行した『学信和尚行状記』に「師の母妊娠して臨月の頃、其の祖先の墓に詣でられしに、其の墓所にて忽ち出生せられしなり。それをかく言い伝へり。」と述べています。いかにも話の本筋のように、上手に実証化しています。しかい、このように理屈でわりきってしまうと、昔の人の素ぼくな考え方、わけても、傑出した人物への一種の神秘化したがる気持を、まっ殺してしまうことになり、本来の伝説の味をそこねてしまうことになります。むしろ、奇跡を信じた昔の人の心根を大切にしてこそ、この伝説は生きてくるのではないかと思います。  この学信和尚の誕生にまつわる「あめ買い幽霊」を紹介した『続近世畸人伝』が、著名な書物であるだけに、全国的にもかなり知られているものと思われます。なお、問題のあめ買い幽霊の墓については、はっきりとした証拠はありませんが、一般には、明積寺の本堂の前のあたりだという説が多いようです。また旭町四丁目の河上義孝商店は、あめ屋の主人惣兵衛さんの子孫に当たるといわれ、今も縁起あめを売っています。
 
所在地:今治市北鳥生町
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62.河上安固と蒼社川
 江戸時代の半ばころまで、蒼社川は、豪雨にあうと、しばしば堤防が決壊し、田畑や家屋が流失したり、時には尊い生命さえ奪われました。人々は、お天道さんの仕わざで、どうにもならぬ天災だと考え、この蒼社川を「人取川」と言って大変恐れました。そのため、江戸時代の代々の今治藩主は、この蒼社川の治水のために頭を悩まし、何度も河川工事を行いました。この治水に真正面から取組み、よい成果を収めた人に、今治藩主第五代松平郷に仕え、土工に手腕のあった河上安固(勘定目付をつとめました。)という人がいました。当時は、蒼社川は今と違って、玉川町から日高の片山、馬越を経て、浅川方面に大きく曲がって海に注いでいたといわれます。(一説には、元禄時代にはすでに、片山、馬越は新田開発が行われ、川が流れていた痕跡はないとして、城の西から北への屈曲説を否定する向きもあります。いずれにしても、川が現在のような直流ではなかったことは事実のようです。)また、現在よりも川幅が広く川床が浅かったようでした。そのため、梅雨など豪雨にあうと、すぐに堤防が破壊され、はん濫のうき目にあいました。とりわけ、清水村、立花村はしばしば水害に見舞われました。  安固は、鳥生に住居を構えていましたが、毎日高橋の権現山に登り、蒼社川を見下ろしては、何とかよい方法はないものかといろいろ考えました。また、夜も出かけては水音に耳を傾けました。このようにしていろいろ水勢を研究した結果、曲がった川筋を真っ直ぐに付け変えればよいという結論に達しました。安固は、さっそく藩主に願い出ましたが、事が余りにも大きすぎるとして、なかなか許可をえることが出来ませんでした。しかし、安固の身命を賭した情熱に藩主も心を動かされ、すべての仕事を任されました。安固は、まず川筋に当たる農民を動員して支流を廃し、川筋を直流にしました。当所は、農民も安固のやり方を非難しましたが、そのうちに彼の熱意におされ、進んで協力するようになりました。この付け変え工事は、現在のように土木工事の進んでいる時代と違うので、相当な労力と日数を要する難工事であったようで、宝暦元年(1751)に着工し、十三年目の宝暦十三年(1763)に完成したといわれています。なお、付け変えだけでは雨が多いと川の水があふれ出ることがあるので、堤防を築くとともに、宗門堀と称する川ざらえ作業を行いました。この宗門堀は、毎年春に三日間、十五歳から六十歳までの男子を選んで当たらせたそうです。このようにして、徹底的に治水に当たったため、それまでのように再々大きな洪水に見舞われることもなくなり、人々も安心して生活が出来るようになりました。蒼社川のほか、呑吐桶及び鳥生高下浜の唐桶も彼が手がけたもので、土木方面に並々ならぬ才能があったことを知ることが出来ます。  安固の墓は、現在鳥生公民館の北側の墓地にあります。河上家は、後に古土居と改姓したので、墓石には『古土居家先祖累代墓』と書かれています。なお、墓石の左側に、遺徳をたたえるため、今治市教育委員会、鳥生史談会、鳥生老人会『史跡河上安固之墓』と書いた木碑がまた右側には、『河上安固墓所』と言う石碑がそれぞれ建っています。
 
所在地:今治市北鳥生町
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63.治衛門と今治城
 今治城(別に吹揚城、美須賀城ともいいます。)は、慶長五年(1600)関ヶ原の戦功により、宇和島七万石より二十万三千石に加増された天下の名将藤堂高虎が築いたものです。この当時の城は、丘陵を利用して築いたものが普通でしたが、今治城は、台湾にオランダ人が築いたゼーランジャ(開国城)用式を取り入れたものともいわれ、海岸近くに平城を造り、三重の堀をめぐらし、海水を導入した当時としては最新式の珍しいものといわれています。本丸の天守閣についても、五層の立派なものが健造されていたようです。(藤堂家の記録をものに編集された『宗国史』と言う書物に書かれています。)─慶長七年(1602)六月から、同九年(1604)九月まで、二年三か月とわりと早い年月で築城されています。─  ところで、この今治城が出来上がるまでには、民衆の陰の力があったことはいうまでもありません。なかでも陰の功労者として石屋、小田治衛門等石工左官の人たち十二名をあげることが出来ましょう。治衛門は、大阪城の築城の際に人夫として働き、石組み法を身につけ、後に西条の禎瑞の干拓にも大いに貢献したといわれています。その功績を認められ、今治城を築く時に、石組みを命ぜられました。この時代には、抜け穴や城の細かい構えを敵に知らせないように極秘にしてもらさず、城主と一部の幹部だけの秘密にしておりました。この時にも、治衛門は、十二人の石工左官の頭としてその相談を受け、抜け道(一説には近見方面にこしらえたといわれています。)の工事に当たりました。それで、城が完成すると、人権無視もはなはだしく、口封じのため十二名の者たちが処刑されることになりました。十名の者は、即刻捕えられて処刑されました。事前にこのことを知った治衛門ともう一人の某の二人は、竹のいかだを作って、夜ひそかに蒼社川尻から流し、やっとのことで大島にたどりつき、危うくその難を免れました。その後、治衛門は大島の宮窪町の余所国の念仏山に隠れて、十名の冥福を祈りながら静かに余生を過ごしたそうです。余所国に鐘撞堂という地名があり、彼の手によって造られたといわれるすばらしい築き方をした石垣が残っており、彼の住居跡ではなかろうかといわれています。現在、余所国に御新田踊りという踊りが残っていますが、治衛門が広めたものかどうかはっきりしたことはいえませんが、一説には先の十人の犠牲者の霊を弔うためのものではないかという声もあります。  なお、処刑された十人塚についてはいろいろいわれていますが、現在のところはっきりとした所在がつかめていません。今治市南日吉町三丁目の小田通俊氏は、治衛門の十七代目の直系に当たるといわれています。また、余所国の大島石材工業株式会社の小田満氏も子孫に当たるそうです。
 
所在地:今治市通町
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64.麦田に散った五人主様
  清水の松尾(現在は五十嵐になります。)の庄屋に、近藤八右衛門という人がいました。正義感が強く、村民のためによく尽くしたので、村人から俗に府中の佐倉宗五郎といわれ、だれからも崇拝されていました。  寛文年間(1661〜1672、詳しくは寛文元年─1661─と寛文七年─1667─になります。)全国的に飢饉に見まわれました。今治藩でも餓死こそなかったようですが、不作で農民は苦しみました。今治の初代藩主久松定房の時でしたが、藩主が参勤交代で江戸に在住中、国もとの某家老が代わって政治を行っていましたが、重い年貢をかける等悪政の限りをし、農民を痛めつけました。八右衛門は家老に年貢の軽減を何度も頼みましたが、一向聞き入れてくれません。非常ないきどおりを感じた八右衛門は、藩主に訴えることを決心し、他村の庄屋(法界寺と郷の庄屋ではないかといわれています。)と相談しましたが、後難を恐れた他村の庄屋は途中から彼のもとから離れてしまいました。某家老の悪政は募るばかりであったので、ついに八衛門は単身で命をかけて事に当たることにしました。寛文七年(1667)十一月、遠路をいとわず江戸に上り、参勤中の藩主に直訴し、訴状二通を差出しました。藩主は、八衛門の労をねぎらい、頭巾と杖を与え、税を軽くすることと善政を敷くことを約束しました。その後、農民は以前のように安心して作業に精進することができるようになりました。そして、八衛門の行為に村人は心から感謝しました。しかし、悪家老は八衛門の直訴を恨み、復しゅうの機会をねらっていました。ある日、八衛門が家族四人と五十嵐の額が内で麦まき中に大勢の武士が早馬で駆けつけ、「無礼なやつめ」と五人の者を即座に、その場で切り殺してしまいました。時に寛文九年(1669)十月十日でした。藩主から余(時分)の代わりにはだ身離さず身につけておくようにいわれていた頭巾と杖を、家に置いているところをねらわれたといわれています。村人の悲しみはひととおりでなく、ひそかに遺体を浄寂寺裏の法華寺山に葬り、五人主様(五人主霊ともいいます。)として手厚く祭りました。今もその墓は残っていますが、罪人扱いにされたのをはばかってか、書かれた文字が摩滅していて不鮮明です。また、後に浄寂寺境内に、五人主堂を建てて八衛門とその家族をお祭りしました。なお、その時乳飲み子が一人いましたが、幸運なことに家で子守をしていた乳母の実家の町谷(旧富田村)にひそかにのがれて、その難を免れました。後に、その難を恐れて、その名も羽倉と改めましたが、八衛門の血を引く、その子孫が今もずっと続いています。(現在、末孫といわれる町谷の羽倉勝正氏宅に、五人主様の位牌が祭られています。)  なお、この惨事があって以来、松尾村の庄屋は取りつぶしにあいました。その後、屋敷跡に小さい社を建てて、霊を弔っていましたが、最近近くの三島神社に一緒にお祭したので社跡はみかん畑になっています。それから、八衛門等五人が殉難した額が内は、今の清水小学校の正門近くの校庭の片隅に当たります。五人主の項をたたえるため、昭和四十八年(1973)に清水小学校の児童PTA等地元の人たちが奉賛会をつくり『五人主殉難之地』の石碑(1.4メートル)が建てられました。
 
所在地:今治市五十嵐
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65.嘆願書に命をかけた八木忠左衛門
  貞享年間(1684〜1687)の昔、延喜に八木忠左衛門という情け深くて正義感の強い人がいました。当時延喜村(旧乃万村の一つに当たります。)は、松山藩料の東端に当たっておりましたが、政令が不行き届きなのをよいことに代官主代等の役人が横暴でむごたらしいふるまいをしたため、農民は生活苦にあえぎどうしようもないところまできていました。延喜村の盆踊りの歌に「盆が来たらこそ、麦に米交ぜて、それにささげをちょっと交ぜて」と言う文句がありますが、米があるかないかの麦飯に少量のささげを交ぜたものが、農民にとっては、最大のごちそうであったようです。ふだんこのような状態ですから、ひどい不作にあうとそれこそみじめな状態であったようです。一時篠地のために祖先伝来の電池を手放すものがいて、そのために耕す土地もなく、住む家もなく逃亡したり、餓死したりする者が跡を絶たなかったようです。今も『千菜田』と呼ぶ田がありますが、飢饉があった時に大根を干した葉と田地と交換した名ごりであるといわれています。  忠左衛門は、こういった農民のみじめなありさまを見るに忍びず、自分の財産を売り払って救済にあたるなどいろいろ努力をしましたが、個人の力ではどうにもなりません。代官に年貢米を減らしてくれるようにとか、扶助米を出してくれるようにといったようなことを何度も頼みましたが、少しも聞き入れてもらえませんでした。悩み苦しんだ末、ついに思いあまった忠左衛門は、村民が困っている様子と役人の不正を詳しく書くとともに、年貢を軽減してくれるようにという意見書を添えて、匿名で藩庁の目安箱に投入しました。思わぬ出来事にびっくりした役人は、いろいろ手を尽くして忠左衛門の居場所を捜しましたが、訴状の文意と筆跡が立派なことから、忠左衛門のしわざだと目をつけ、捕り手を差し向けました。  一方、忠左衛門は、今ここで捕らえられて殺されるようなことになれば、村民の行く末が案じられると思い、一たん身を隠すことにし、息子の小太郎とともに、平素信仰している讃岐(今の香川県)の琴平の金毘羅大権現に、時分の願いがかなえられるように祈願に上がっていました。それを知らぬ捕り手は、忠左衛門の妻や下男下女に、きびしい拷問を加えるなどして取調べをしました。また、鉄板焼きの拷問の道具を持ってきて、真っ赤に焼いた鉄板の周囲へ、村中の農民を呼び出して「忠左衛門の居所を申し出れば、ほうびに銀百枚を与える。もし隠すような事をすれば、一人残らずこの鉄板の上を通らすからそう思え。」と言葉巧みにおどしました。このうまい言葉にまんまとひっかかった飛脚八木某は、ついに忠左衛門の行くえを告げてしまいました。  金毘羅宮奥の院の神前で、大願成就を祈っていた忠左衛門は、駆けつけてきた八木某の「嘆願書をご家老がご覧になって、百姓たちにひどく同情され、年貢の軽減を考えてやるとのことです。代官様も悪事がばれて謹慎を申しつけられました。村人もみんな忠左衛門様のお帰りをお待ち申しております。」と言う甘い言葉を信じ、帰国の途につきました。ところが、桑村郡中村(東予市三芳)のあたりでそれがうそであることが知らされ、さすがの忠左衛門も驚きました。十手を持った捕り手に待ち伏せられていた忠左衛門は、やにわに立花の郷のあたりまで落ちのびましたが、力尽き三島神社の境内でつかまえられてしまいました。忠左衛門は憤慨しましたが、観念して、左小指をかみ切り、境内の椿の葉を取ってそれに包んで、自分は犠牲になってもよいから事がうまく運ぶように祈願して、社殿に献上しました。代官所に連れて行かれた後いといときつい取調べを受けましたが、がんとして自分の正しさを曲げませんでした。やがて、忠左衛門父子は、新町の古寺(現在の今治市大西町新町)の刑場に連れていかれ、打首の刑に処せられました。時に貞享三年(1686)六月二十九日でした。獄吏が今わのきわに、なにか言い残すことはないかと尋ねた時「ご家老様に延喜の農民を頼むと伝えていただきたい。」と言ったそうで、どこまでも農民のことを思うその立派な態度に、立ちあった者一同が感心したということです。また打首の前に食べさせてもらった夏柑の粒が、せがれの小太郎の首の切り口から飛び出したそうで、けなげな子供の最期に役人も目をおおったそうです。  忠左衛門父子の首は、竹槍に刺されてさらされましたが、わが父のように親しみ尊んだ忠左衛門の死を村人たちはひどく悲しみ、むせび泣きをしながら合掌しました。こういった話によくあるケースですが、真偽のほどはわかりませんが、忠左衛門の場合も打首寸前に助命せよとの命令が出され、早馬が駈けつけましたがわずかに間に合わなかったという説もあります。  その後、忠左衛門父子の霊は、乗禅寺(真言宗)の裏山に葬られ、てい重に祭られています。当時、罪人扱いにされたためか、石碑も粗末で摩滅していて字もよみにくいところが多いようです。
 
所在地:今治市延喜
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66.村人にかゆ弁当をすすめた越智孫兵衛
 寛文から元禄のころ(1661〜1703)、阿方村(旧乃万村)の庄屋に越智孫兵衛通勝という人がいました。仏教を信仰し、慈悲深く聡明な人であったので、村人からも非常に尊敬され親しまれていました。阿方村は、先の忠左衛門の延喜村に隣接した村で、延喜村同様松山藩に属しておりました。当時七割もの年貢米が徴収されるというありさまで、農民の苦しみは大変なものでした。忠左衛門の例を見てもわかるように、こんな時に年貢米を減らしてくれるように訴状でも出そうものなら、それこそ打首かはりつけ刑間違いなしです。孫左衛門はいろいろ考えあぐんだ末、一策をたてました。  ある年のこと、藩の命令で用水池を造ることになりました。孫兵衛は村人を集め、「明日の工事には米麦半々にしたおかゆを竹の筒の入れて持っていきなさい。にぎり飯は絶対持っていかぬようにしなさい。」と言い渡しました。村人たちは不審に思い、なぜそんなことをするのか尋ねましたが、孫兵衛はそのことには触れず、「まあ、それはあとでわかるから私の言うようにしなさい。」と優しく言いました。平素尊敬され慕われている孫兵衛のことです。それ以上問い返す者もなく、皆その通りにすることにしました。池役の昼飯時がやってきました。どの村のお百姓もにぎり飯をほうばっているのに阿方村のお百姓だけは竹筒に入ったおかゆをすすっていました。他の村人や役人の目に止まらぬはずはありません。さっそく孫兵衛は役人から呼び出しを受け、「阿方村の百姓だけが真っ昼間からどぶろくを飲んでいやがる。なんということだ。」ときついおしかりを受けました。孫兵衛はいかにも悲し気に言いました。「実は百姓どもが飲んでいるのはおかゆでございます。阿方村は地味が悪く米が出来ませんので年貢米を納めましたら残りはほとんどありません。それで腹が減ってつらかろうと思いますが、他の村のようににぎり飯を持ってくることができないのです。まことに阿方村の百姓どもがあわれであわれでなりません。事情をおくみ取りいただき、ご年貢米を減らしていただきますようお取り計らいの程よろしくお願いします。」  孫兵衛の話を聞いて深く同情した役人が、このことを藩主に申し上げたため、年貢米をそれまでの七割から六割に下げてくれることになりました。阿方村のお百姓が孫兵衛に心から感謝したことはいうまでもありません。おかげで享保十七年(1732)の大飢饉のときに他村では多数の餓死者が出ましたが、阿方村では出さずにすみました。  孫兵衛は元文三年(1738)にこの世を去りましたが、その遺徳をしのび感謝するため、村人はりっぱな墓を延命寺(真言宗)の境内に建てて、てい重にお祭りしました。今でも毎年八月七日に感謝の慰霊祭を行っています。阿方貝塚の発見者故越智熊太郎氏は孫兵衛の子孫に当たります。  なお、減税の成功は竹筒法のほかに、孫兵衛の家が二、三の有力な藩士と血縁関係にあったことも影響しているのではないかという人もいます。  先に述べた近藤八右衛門と八木忠左衛門とここで述べた越智孫兵衛が、それぞれ郷土の誇る義民として、この地方では有名な歴史上の実在の人物ですが、古記録などあまりなく、ほとんどいい伝えによる伝説的な面が多分にありますので、ここに伝説として取り上げたようなわけです。
 
所在地:今治市阿方
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67.山路村のために尽くした橋田久兵衛
 江戸時代のはじめころ、山路村(旧乃万村)の庄屋に橋田久兵衛という人がいました。当時、山路村の田地のほとんどに引き水がなく、雨が降るのに任せておりました。そのため、よほど雨でも降れば別ですが、日照りでも続けばほとんど収穫はありませんでした。それでも、山路の農民は、毎年、どうか雨が降りますようにと祈りをこめて、田植えは欠かしませんでした。何とか引き水を得たい。これが農民の切なる願いでした。引き水をするとすれば、隣接している今治藩の馬越村(旧日高村)を通して総社川から取るということになりますが、山路村は松山藩になっており、藩が違うのでなかなかの難問題でした。というのは、水利のことは農民にとっては一つの生命線になるので、同じ藩内でも容易なことではないのですちょっとした溝やせきのつけ変えにも古くからのしきたりがあり、争いがしばしば起こっています。久兵衛は、このままにしておいてはいつまでたっても山路村の農民は救われぬ。何とかしなければと身命をかけて、馬越村の庄屋と掛け合ったり、松山藩の役人に訴え出たりしました。お掛けで引き水に成功し、以来山路村にも秋の収穫期には沢山稲を刈ることが出来るようになり、農民はたいそう喜ぶとともに、久兵衛に感謝したということです。  この引き水に成功したのは、橋田久兵衛の努力によるところが最も大きいことはいうまでもありませんが、他に妻が松山藩士と親戚関係にあり、藩士が松山藩主に申出たことも大きな原因の一つであるという説もあります。また、松山藩主と今治藩主とは親戚関係にあったので、話が案外うまくいったのではないかともいわれています。  なお、久兵衛については、次のようなおもしろい話が残っています。  江戸時代には、山林の中にある大木巨樹は山の所有者であっても、官林とされて自分勝手に切ることは出来なかったようです。ところが、久兵衛のその官林の木を切って、家屋に当てていたのがお上に聞こえ、おとがめを受けたことがありました。そこで、久兵衛は、「お上にとって大切なご年貢を保管しておくおこなし部屋がいたんだので、若しものことがあってはと考え修繕させていただきました。やむをえず少しばかり用材をいただいたのですが、お上の掟にそむく気持ちなど毛頭ございません。」と説明しておわびしたところ、お上は苦しくないと見逃してくれたそうです。おこなし部屋の訴えは、久兵衛の妻が考えたという説もありますが、いずれにしても久兵衛夫妻は中々の知恵者で、山路村の村政に貢献するところが大きかったようです。二人のお墓は、山路の瑞泉寺(曹洞宗)の後ろの山にあります。
 
所在地:今治市山路
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68.綿花に命をかけた指切りの山本九郎兵衛
 江戸時代の初めころ、今の大西町宮脇に山本九郎兵衛清安という農民思いのとても立派な庄屋さんがいました。宮脇村は松山藩でしたが、年貢の負担が重く、苦しい生活を強いられていたので、少しでも生活の足しにしようと、九郎兵衛のころに綿花の栽培を始めました。しかし、このことが役人の目に止まらぬはずはありません。ある時、宮脇村を巡視に来た検見の役人が、木綿畑を見て、綿花にも課税しようと、九郎兵衛の家にやって来ました。九郎兵衛は、「これまで、木綿畑を調査したことも、これに課税を掛けたことも一度もございません。どうか綿花への税だけはご勘弁下さい。」と頼みこみました。役人は、「何の理由もなしに、この宮脇村だけを見逃すわけにはいかぬ。免税してもよいという何か証拠でもあるのか。しっかりした証拠でもあるのなら許そう。」と意地悪気な口調で返事を求めました。九郎兵衛は返答に窮しましたか、「ございます。隣の部屋に置いてありますので、しばらくお待ちください。」ときっぱり言い放ちました。隣室に行った九郎兵衛は、間もなく綿花に包んだものを持って来て、役人に、「証拠はこれでございます。」と言って渡しました。役人は、綿花を開けて驚きました。鮮血したたる一本の指が入っていたのです。さすがの役人も、九郎兵衛の豪胆な態度に驚き、「わかった、お前の言うようにしよう。」と言って、見のがしてくれることになりました。  九郎兵衛は、延宝八年(1680)十一月二十二日に七十七歳で天寿を全うしました。現在、宮脇の法隆寺(真言宗)にお祭しており、芳名は「泰龍常安居士」と言っています。また、宮脇の共同墓地の近くの丸山池の土手に、九郎兵衛のものといわれる墓があります。墓名は、正面「南無遍照金剛」右側面「文化十二年迄凡二百年余改立者也」左側面「山本氏先祖九郎兵衛墓」とそれぞれ書かれています。人々は、このお墓のことを「指切地蔵」と呼んでいます。なお、里人は、九郎兵衛の肝の太さ、勇敢な心をたたえて、彼のことを「指切九郎兵衛さん」とか「指切さん」と呼んで、慕っています。それから、この山本九郎兵衛は、伊予の豪族、河野家の流れをくむ重茂山城主左兵衛尉通定の子孫といわれます。また、江戸時代末期の郷土の画家として有名な山本雲渓は、九郎兵衛より五代あとの子孫に当たります。
 
所在地:今治市大西町宮脇
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69.芋地蔵になった下見吉十郎
 芋地蔵で有名な大三島の上浦町瀬戸崎の下見吉十郎は、江戸前期の人ですが、若い時分に四人の子供が相ついで亡くなり、世の無常を感じ、悲しみのうちに毎日を送っていました。ところが、ある夜、今治の郷の地蔵尊が枕辺に出現せられ、しきりに発心修行を促されました。最初はどうしたものかと迷っていましたが、再度立たせられ、信仰を勧められたので、遂に、仏の道に仕えることに決心しました。早速、郷の地蔵尊にお参りし、その旨をお伝えして、身を清め、木造を彫刻しました。かくて、正徳元年(1711)六月二十三日に、この木像を守り本尊とし、白装束に身をかためて、六部行者となって日本廻国の途につきました。―この廻国の様子については「日本廻国宿帳」「官報謝帳」などに記録されています。―  あちこち行脚し、正徳元年十一月二十二日に、薩摩国(鹿児島県)の伊集院村の土兵衛と言う農家に泊めてもらいました。そこで、さつま芋をご馳走になりましたが、余りの珍味に驚き、さつま芋を貰い受けることにしました。―実は鎖国時代のことで、他国への移出が厳禁されており、藩主の許可が得られにくく、土兵衛から断られ、やむなく厨子に隠して持ち帰ったと言う説もあります。―途中、幾多の困難に遭遇しましたが、やっと、これを持ち帰った吉十郎は、里人にその栽培法を教えました。その結果、翌年から年を追うにつれて芋つくりが広まり、お陰で享保天保などの飢饉の時にも多くの人が救われました。吉十郎は、廻国後、前と同じ四子をもうけ、自らも八十二歳まで生をまっとうすることが出来ました。後の人は、吉十郎に感謝して芋地蔵さんと呼んでお祭りしました。この芋地蔵は、吉十郎のいた瀬戸崎の他、越智郡から広島県の島々のあちこち祭られており、今治にも八丁の常明寺(真言宗)に見られます。なお、吉十郎がさつま芋を広めたのは、甘庶先生として有名な青木昆陽より約三十年古いと言われています。しかし、個々的には、今治藩の家老であった江島為信が日向(宮崎県の一部)の飫肥の地より、初めて取り入れ、越智群の大島地方に試食したのが元祿四年(1692)で、吉十郎より約二十年古いとも言われています。  しかし、いずれにしろ、全国的普及の面から見れば、昆陽と比較するのはどうかと思われる面もあります。ただ、世間一般には、さつま芋の栽培を全国的に普及したのは、昆陽とするむきが多いですが、これは多分に過大評価しているきらいがあります。昆陽以前にも、全国各地で栽培されていたと言うのが事実のようです。つまり、昆陽が全国普及を唱えていた時分に、吉十郎のように、本場の薩摩から移出の厳禁を破って他国へ持ち運ぶものが、ぼつぼつと考えられ、それがやがて、全国的な普及への足がかりとなったと、言えるのではないかと思います。  ここで、さつま芋の栽培の普及について云々するのは学説的になり、本稿の主旨にあいませんのでこの程度にとどめます。
 
所在地:今治市郷本町
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70.豪傑でとんちにとんだ権八さん
  昔、阿方に権八さんというとても力持ちでとんちにとんだ人がいました。権八さんは、百五十六キロも目方があり、相撲取りのように立派な体をしていました。ところが、大きな体ににあわず、身のこなしも軽やかで、腰にごつい帯をしめ、それに米一俵(四斗五升入り、八十一リットルに当たります。)を結びつけ、大きな体をゆすりながら高い木によじのぼるような芸当をやって怪力ぶりを見せ、人を驚かしたそうです。権八さんは、言うことを聞かないような人の耳を引っぱるくせがありましたが、大方の人は、ちょっとでも引っぱられると、もんどりうってころげたそうです。この権八さんについては、他にいろいろおもしろい話が残っていますので、次にそのうちのいくつかを紹介してみましょう。  ○旅行をしていて、讃岐の善通寺のある宿屋に泊まった時のことです。土で出来た風呂へ入る時、権八さんが「土風呂は気色が悪いがこわれはしないか。」と宿屋の主人に尋ねたところ、主人が「お客さん、つまらないことを言わないでくださいよ。いくら大力の人だって、びくともするもんですか。」とつっけんどんに答えました。頭にきた権八さんは、湯船の中で全力の力を振りしぼってふんばりました。あまりの力に湯船はこわれてしまい、灰の中へドカンとしりもちをつきました。「アッチチ……」権八さんの悲鳴に宿屋の主人は目を白黒させながらあやまったそうです。  ○ある時、今朝をつけ、深い編笠をかぶり、尺八を手にしたちょっと柄の悪そうな虚無僧が権八さんの家の門口へやってきて、ものごいをしました。権八さんは、虚無僧に「お通り」と言いました。虚無僧は「失礼千万なやつだ」。とたいそう腹を立てました。「土百姓の身分故、なんと言ったらよいか知りませず失礼しました。どのように言ったらよいかお教え下さい。」と権八さんは低姿勢で尋ねました。虚無僧は「ご無用と言うものだ。」と偉そうに答えました。そこで、権八さんは、隣から隣へと虚無僧がやってくるより一足先に裏口から入って「ご無用」とおらんでまわりました。虚無僧は、とうとう権八さんの家の近くでは何ももらうことが出来なかったそうです。  ○ある夜中に権八さんの家に泥棒が入ったことがありました。権八さんは、ぐうぐう高いびきをかきながら寝ていましたが、ゴトゴトというもの音で目をさました。気をつけて周囲をよく見ると、壁を包丁で切っていることがわかりました。権八さんは、一瞬この泥棒をつかまえてやろうと思いましたが、大目に見てやることにし、切り口に金属製のちゃがまのふたを持ってきて、内側から押さえつけました。それを知らぬ泥棒は、必死で切ろうとしますが、少しも前向いて切れません。そのうち包丁の先が折れてしまいました。権八さんは、「これこれ、この壁は金で出来ているのじゃ、お前には無理だ無理だ。」といって大笑いをしました。泥棒はびっくり仰天して、逃げ帰ったそうです。  ○最後に、こんなとんちにとんだ話があります。  ある会合としていた時、あるお百姓が、「粟おこし千個(百個という説もあります。)と柿のくし十本を時間内に食べればたいしたものだが、なんぼ権八さんが豪傑でもこれだけは無理だろう。」と冗談半分に言いました。権八さんが、「何か条件でもあるのか。」と尋ねたところ、お百姓は「ある時間内に食べてくれれば、茶を飲もうが、水を飲もうがかまいませんよ。」と言いました。権八さんは「そんなら大丈夫だぜ。」と言って、せいろう(蒸し器、このあたりでは、せいろとも言います。)で粟おこしを蒸して、濃縮してわんに入れ、柿のくし十本は灰にして、ペロリペロリと食べてしまい、「やあ、ごちそうになった」と言ってケロリとしていました。見物していた連中は、このとんちぶりには驚きいったということです。  この権八さんについては、他にもいろいろ変わった話がありますが、長くなりますので、この辺で終わります。詳しいことは、越智三溪著「郷土乃万の伝説」にも出ています。  なお、権八さんは、先に「66村人にかゆ弁当をすすめた越智孫兵衛」で述べました阿方の庄屋の越智家の分家に当たるそうで、亡くなったのは、享和三年(1803)九月三十日になっています。
 
所在地:今治市阿方
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71.大力の吉蔵さんとかじ取り
  昔、馬島に塩見勝衛門という豪商がいました。勝衛門は、十三段巻の帆船で瀬戸内海から遠くは日向(今の宮崎県)の方面まで出て行って魚を買い集め、阪神方面へ持って行って尼崎等の魚市へ卸しました。大きな船に魚を満載していたので、勝衛門の船が入港すると魚市の相場が変動したと言われるほどの繁盛ぶりでした。この勝衛門は、馬島の故塩見米太郎氏の先祖で二代目に当たるということです。勝衛門が常時使っていたといわれる浅黄色の布製の財布が家宝として最近まで残っていたそうです。  ところで、この勝衛門が繁栄をきわめたのは、彼自身の才能もさることながら配下に屈強の乗組員がこれを撃退したので、後には海賊どもが、勝衛門やその配下に恐れをいだいたということです。ここにその武勇伝を二つほど紹介しましょう。  ある時、讃岐の塩飽諸島を通航していると、海賊どもが船を止めかき上がって来ました。そして「金を出せ。」と脅迫しました。水夫たちが「お前たちにやる金なんかない。」と反発すると、相手の海賊どもは刀を抜いて振りまわしながら「金を出さんのなら命をもらうんじゃが、どうすりゃあ。」とおどします。乗組員のなかに吉蔵さんというすごい力持ちがいました。この帆船には魚を活かしておく生簀がありましたが、航海中は、船の水が絶えず変わっているからかまいませんが、港へついたら碁石をいっぱい詰めた十八貫(六十七・五キロ)の土俵を柱へつって動かし船を左右に振らして生簀の水を入れ変えていました。この吉蔵さんは、海賊どもが大ものを言っているところへこの十八貫の土俵を右手の手のひらに乗せてゆうゆうとやって行き「ああ、わしらには金がない。お前等腹が減っとろうがい。これでも食うがええわい。」と言って差し出しました。続いてそれを見ていたかじ取りをしている某男が、かじ柄(大きな帆船であるので、元気な男でやっとかたぐことができたといわれています。)をひょっと引き抜いて「団子もろたら箸がなきゃあ食えまい。そりゃあ箸やろ。ほい。」と言って、これも右手で端の方を持って軽く差し出しました。そしたら首領格の男が色まいて、「まことに無礼なことをいたしました。こんな豪傑ぞろいの船へこうやってろくでもないことをしました。金もらいどころではありません。命だけはどうかお助け下さい。」と平身低頭して言ったかと思うと海賊どもはそのままほうほうの体で逃げて言ったそうです。  それから今一つこんな話があります。ある島の近くで潮待ちをしていたところが、若い衆のにぎやかな声が聞えてくるのです。それで吉蔵さんは先のかじ取りの某男と一緒に、何をやっているのだろうと興味本位で島に上陸してみました。声のほうへ近づいてみると、若い衆が大勢で力くらべをしておりました。相撲をとったり、石かたぎをしたり、それぞれに力くらべの最中です。特に石かたぎに人気が集まっていました。小さい石から大きい石へと順々に上げておりましたが、二百貫(750キロ、二十貫という説もあります。)の銘の入っている石になると、入れ代わり立ち代りかつごうとしますがだれがやってもどうしても上がりません。はたで見ていた二人が、ワッハハ……と大きな声を出して笑ってしまいました。すると、若い衆たちはすごく腹を立てて「おどれ、旅の奴、どこから来やがったんぞ。わしらがようかたがんもんを何で笑いやがる。大きに笑いやがるのならようかたぐに違いない。かたいでみい。かたがんかったら命がないと思え。」と決めつけました。二人の大力は、平身低頭で断りましたが、どうしても承知しません。殺してやるとものすごい剣幕なので、吉蔵さんは、着物を脱いで、ふんどし一つになると、うんと腰を落として石を持ち上げ、ぽーんと海へ放りこみました。若い衆たちは、それを見ると、くもの巣を散したように一目散で逃げて行ってしまいました。吉蔵さんとかじ取りの二人は、ワハハ……と超え高らかに笑いました。  塩見勝衛門の配下であった吉蔵さんは、塩見家の一族だったそうです。気は優しくて力持ちといった好人物であったので、勝衛門の信頼もことのほか厚かったといわれています。
 
所在地:今治市馬島
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72.殿様の奥方を背負った豪傑男
  昔は、馬島にはまったけが沢山はえていました。俗にまったけ山という山がありますが、ここでは特に大きなまったけがよくとれたそうです。それで、毎年秋が来ると、今治の殿様は、奥方や大勢の家来とともに、馬島のこのまったけ山にたけ狩りに来ました。  ある年のことです。殿様と一緒にまったけ狩りをしていた奥方が、沢山とれるのでつい夢中になり、深い茂みに入って、よう出て来ぬことになりました。殿様は心配して周りの家来に、「だれかはよう行って背負って出して来い。」と命じました。皆顔を見あわせるばかりで、だれも連れ出しに行こうとしません。村の総代は仕様が無いので浅おじ、要おじという元気者をつかまえて「お前たち二人が行ってお連れ申して来なさい。」と言い付けました。浅おじは、「滅相もございません。」恐れ多いことです。お殿様の奥方を背負うてもしものことがあったら大変なことです。ほかのことならいざしらず、どうかご勘弁下さい。」と断りました。そしたら武藤権七という字(本名以外につけた名)ともつ、むこうみずの豪傑男として知られた要おじは、少しも憶する色無く、「いやいや、お殿様の奥方を負えるなんて、こんな光栄なことはまたとないこっちゃあ、粗こつなことをして、そのまま手打ちになっても本望じゃあ」と喜びいさんで、おおい茂った草木をかき分けかき分けして山の中に入り、奥方を無事背負うて救い出しました。殿方も奥方もすごく喜ばれ、要おじに沢山のほうびを与えました。要おじは、いつまでもこのことを自慢話にして人々に聞かせたということです。  とにかく、要おじは、肝ったまの太い豪傑男として近郷在にその名をとどろかせた人物でした。
 
所在地:今治市馬島
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73.山城姫の最期
  天正年間(1573〜1586)の昔、宮が崎(旧桜井町)の霊仙山に中川山城守親武が城主として城を構えていました。山城守は、武勇の誉れが高い河野十八将の一人でしたが、訳があって僧侶となり温泉郡の岩子山のふもとに円久寺という寺を建立し、一族の菩提(仏果を得て極楽往生をすること)を弔いました。後に霊仙山に城を移し、同じ名の円久寺(曹洞宗)を建立し、薬師如来を安置して深く信仰していました。山城守は、体格に恵まれていましたが、腹痛と筋肉痛のため常々苦しみ、不幸にして天正五年(1577)六月七日に陣中で病歿しました。義政を慕っていた村民は、彼の死を大変惜しんだということです。臨終の時、薬師如来に腹痛筋肉痛に悩む者のために、信者の身になってお取り次ぎをする旨の誓願をたてたそうです。その後、人々はこの薬師如来を山城薬師と呼びました。その加護を受けようと参拝者も多いそうです。天正九年(1581)に山城守を想起して書いたと言われる肖像画が、現在円久寺に保存されていますが、この肖像画は、この地方では最古のものといわれています。  ところで、この山城守が亡くなってからは、弟の常陸介豊澄が代わって陣中指揮に当たっていましたが、天正十三年(1585)小早川勢の攻撃を受け、遂に落城すことになりました。山城守には、山城姫というとても美しくて聡明で武術に勝れた息女がいました。この時、山城姫は、得意の長刀をふりかざして奮戦、敵を散々悩ましたあげく、力尽き刀で持って自決しました。時に二十八歳であったといわれています。この山城姫について次のような風変わりな話が残っています。  昭和二十五年(1950)の八月、宮が崎の山城守のお堂の右の方のお姫山―高さ40メートルくらいの小高い山―で二人の少女(秋山、渡辺という当時十三歳であった少女)が遊んでいたところ、眼前に突然白鉢巻をした白衣の美しいお姫様が出て来て、少女たちを驚かせました。その後、姫を見た秋山という少女の父親の伊十郎氏(当時六十七歳)は、三年間も脳病で床につきなやんでいたのが、この少女の話を耳にし、これこそかねがねうわさに聞く山城姫の御霊であると、一心に自分の病気が治るように祈願してから、日増しに快方に向かったそうです。伊十郎氏は「お礼参りが出来るようになれば、お堂を建てます。」と言う心願を掛け、他の信者の援助も仰いで、後に彼自身の手で、お堂と通夜堂を建立しました。伊十郎氏もある夜、枕もとで少女が目にしたのと同じ姫の姿を拝んだそうで、このことがあって以来、体のほうもすっかりよくなり、八十一歳の老齢まで元気で生を全うすることが出来たということです。また、話がちょっと変わりますが、昭和二十八年(1953)五月に鯉池住宅の宮内筆代女史が、宮が崎で姫の話を耳にし、姪に当たる今井那津子さんに尊像をかいてもらいました。今井さんは、体を洗い清めるとともに断食して精神統一をはかり、祈願をこめ、八日目に山城姫の尊像を空中に拝し、鉛筆一本で、二時間ほどで書き上げました。しかも、その時に現われた姫の姿は、少女や伊十郎氏が仰いだイメージと全く同じだったということです。後に偶然かどうか、近くのある人が、お姫山の入口にあった俗にいうお姫岩という岩を動かしたところ、不幸ごとが続いたという話も残っています。  科学の進歩した今日から考えた時、全く奇妙な首をかしげたくなるような話ですが、これは伊十郎氏の妻に当たる秋山マサ子さんや、円久寺住職の故藤原画雲和尚から直接聞いた話です。心の悩み事のある人や脳病に悩む人、更には、入学試験などでおかげをこうむりたい人など参詣者もかなりいるということです。旧暦の三月四日を山城姫の縁日として法要を営んでいます。最後に、故画雲和尚が山城姫について詠じた歌を二首挙げておきます。

    人皆を 清き心に なさばやと あらわしませり 姫はこの世に
    我人の 心のなやみ 身のいたみ すくいたまえと 祈る姫君

 
所在地:今治市宮ヶ崎
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74.お産の神、鷹取殿
  天正年間(1573〜1591)の昔、新谷の吉祥寺(臨済宗)の西南二千メートル余の古鷹取山(今治市古谷)に、正雄か紀伊守経長が城を構えていました。ところが、天正十三年(1585)七月十七日、豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景の不意の夜討ちにあいました。しかし、鷹取城は、高い所が居城になっていた上に、勇士の奮戦めざましいものがあり、周囲の城が、隆景の攻撃で比較的早く落城したにもかかわらず、なかなか落城しなかったそうです。朝倉村に射谷が窪(矢の窪とも言います。)という地名が残っていますが、これは、両者の軍勢が猛烈な弓矢の撃ちあいを演じ、このくぼみの所へ、矢が沢山落ちたところからきているものだともいわれています。ところで、この鷹取城陥落の秘話として次のようなおもしろい話が残っています。なかなか鷹取城が落ちないので、小早川勢がしびれをきらし、ついに和議を申し込み、みつぎ物として、つづらを紀伊守に送り届けてきました。そのつづらを開けると、蜂の群が飛び出し、沢山の者が刺されました。二回目のつづらが来た時に、これも蜂だろうと考え火をつけたところ、今度は火薬であり、大爆発を起こして大きな損害を受けました。これをのろしとして、敵が一せいに攻めこんできたため、城中は右往左往の大騒動で、散々な目にあいました。―この戦法を使ったのも攻め込んで来たのも、実際は来島水軍であろうといわれています。―この時、山ろくの蔵の台という所(今治市古谷)に、沢山の兵糧米を保存していたのが焼けたらしく、明治三十八年(1905)、雨で土砂がくずれた際、地中から消し炭のように黒く焼けた米が沢山出てきたそうです。落城したその夜、紀伊守、奥方をはじめ、一族郎等は、月を仰ぎながら吉祥寺の後ろの鷹取山に逃れ、ここで潔く切腹しました。今わの時に、紀伊守を奥方は、「国家安康、災難削除、人畜平安を守護する。」と言う誓いをたてました。また、ちょうどご懐胎(赤ちゃんを身ごもっておられること)の身であった奥方は、わが霊は、永遠に妊婦を守護し、安産を遂げさせ、男児には『福徳知恵』を、女児には『端正麗姿』(顔、形がきれいで整っている様子)を与えるという誓いをされたということです。  時代は下って、今から約二百年ほど前、吉祥寺の寛嶺という住職の時分に、枕もとに紀伊守の奥方が立たれたことがあったので、供養するため墓石を建てました。そんなわけで、この墓石を二、三度刻み換えたのですが、そのたびに、奥方の法名を刻んでいる側に、白い線が表われたそうです。今も吉祥寺境内にある鷹取殿に収められている墓石には、白い線が残っているそうで、人々は、これは奥方が生存中に腹帯をしていた白い布ではないかといい伝えています。このようなことがあって以来、近郷近在の人々から崇拝され、参詣する者も多いそうです。とりわけ、安産福徳を得た人は数知れぬということです。今もこの鷹取殿にはご利益を受けようとする人や、受けた人が祭った子供の小さい着物や写真が、沢山納められています。その後、ずっと従臣に当たる清水一族―最近は吉祥寺―が、その霊を弔い、特に旧暦の四月十三日を鷹取祭と称してお祭りをしています。
 
所在地:今治市新谷
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75.岡部十郎親子の最期
 大井と小西(現在の大西町)の境に、岡部十郎が居城していた重茂山があります。天正十三年(1585)の昔、小早川隆景の攻撃を受けましたが、重茂山を包囲された時に、敵に自軍の困窮の様子がわかってはというので、わざと、食糧に恵まれているように見せかけるため、洗い米の水を流して敵の目を欺いたそうです。後にこのことがばれ、いっきに攻めこまれ城主岡部十郎夫妻をはじめ、一族郎党の多くはここで討ち死にをしたと言うことです。  ところで、この岡部十郎にとても美しくて賢い姫がいました。姫は、両親と一緒に討ち死にを決意していたのですが、何とかこの城を逃れて家を中興してくれという両親の命に従って、城を落ちのびることにしました。菅笠をかぶり粗末なぼろけた身なりをして、落ちのびていたところ、たい松を飾した敵に見つかり、自害してしまいました。―見つかった場所は大西町山之内土居だと言われています。―敵が現れた時に、萱の中に身を隠していたのですが、菅笠が敵の目にとまったのが運のつきであったと言うことです。しかし、姫の最期はかなかな立派であったそうです。その後、この地を衣笠と呼び、村人は祠を建てて、衣笠の弁天様としてお祭しています。この弁天様に、「一生菅笠をかぶりません」とお誓いをたてると、お陰を受けると言い伝えられ、お参りに来る人も多いそうです。また、姫のために、重茂山城の西南に建設中であったと言われる御殿の跡を、土地の人は上の城<じょうのしろ>と呼んでいます。なお、岡部十郎は、熱心なキリスト教の信者であって、重茂山は、十文字山と言い、キリスト教に関係がああるとするむきが多いようです。現在、この弁天様の祠の前に、キリスト教信者が崇拝したといわれる石碑もあって、その名残をとどめています。  所の人は、毎年新の五月二日を縁日としてお祭し、子供たちが相撲を披露し、その霊を弔っています。それから、俗に、岡部十郎夫妻の墓と言われるものが、今治市野間覚庵にあり、五輪塔二基が残っており、国の重要文化財になっています。―歴史的に考証した時には異論もありますが……―
 
所在地:今治市大西町山之内
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76.二人の仲を取り持ったまったけ狩り
 昔、江戸時代の終わりころ、馬島にヲタカさんというとてもすばらしい美人がいました。さしずめ今治小町というところで、島内はいうに及ばず、地方にまでその名が聞こえ、若い衆のあこがれの的となっていました。そんなわけで今治の殿様の目にとまらぬはずがありません。まったけ狩りで馬島を訪れた殿様は、ヲタカさんを一目見るなり、すっかり魅惑されてしまいました。―当時、今治藩の殿様は、春に吹揚の堀で網を使って魚を取ることと、秋に馬島でまったけ狩りをするのを一つの年中行事のようにしていたということです。―それ以来、殿様は寝てもさめてもヲタカさんのことが頭から離れません。とうとう人を介して腰元として迎え入れました。城内での殿様のヲタカさんに対するちょう愛ぶりはたいへんなもので、ヲタカさんは、毎日楽しい日々を過ごしました。しかし、そこは封建社会のこと、余り身分の高くないヲタカさんは、女盛りを少し過ぎると殿様の気持とは裏腹に周囲の勧めで殿様の元を離れて、生家の馬島に帰らなければならないことになりました。殿様は、しなやかで気品があり優しいヲタカさんと暮らした過ぎし日々のことが頭から片時も離れません。しかし、殿様は一度帰したものをそうたやすく城内に入れることができず、恒例の秋のまったけ狩りの来るのを唯一の楽しみにしておりました。まったけ狩りの時には奥方や家来が大勢ついて来ましたので、殿様は日が暮れるのを待って、単身でこっそりとヲタカさんの家の裏口から入って行き「ヲタカや達者か」と声をかけ、寸時ではありますが逢瀬を楽しんだということです。一方、ヲタカさんも女盛りを過ぎたといっても、まだ殿様から下がった時は、若い身空であったので、結婚ということもあったわけですが、かって腰元であった関係でだれにでも嫁ぐわけにもいかず、独身で過ごしました。これもさしずめ封建社会の災いといえましょう。それでもヲタカさんは殿様同様、年に一度の来訪を心から待ち望み、何よりの楽しみとしていたそうです。
 このヲタカさんは、馬島開発の先祖の初代塩見五郎左衛門の分かれの塩見与七から四代目に当たる駒之助の娘で、現在も七代目の太助氏(馬島在住)方に位牌が祭られています。位牌には「心室妙三信女位」(表)「明治二十二年丑九月十二日ヲタカ事」(裏)」と書かれています。また、太助氏の近くの温室あたりを殿様屋敷と呼んでおり、殿様が訪れたところだといわれています。
 まったけ狩りが殿様とヲタカさんの仲を取り持った話といえましょう。
 
所在地:今治市馬島
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77.直助の悲恋
 昔、今治藩に直助という城下きっての美青年がいました。直助は、黄金町に住居を構えた窪田武太夫という謹厳実直な武士の中間奉公(武家の召使い)をしていました。四角四面な武太夫の感化を受けて、直助も毎日とてもまじめに勤めておりました。ところが、この直助が、あるふとしたことがきっかけになって、城下のはずれに住む掛茶屋の娘と恋仲になり、人目を忍んで夜ごとに逢瀬を楽しむようになりました。これで事が住めば何のことは無かったのですが、運悪く、ある晩用事ができて夜遅く帰宅した武太夫に、塀を乗り越えて外出しようとしている現場を見つけられました。しかし、初めてのことだというので、この時は、以後絶対掛茶屋の娘に会わないという約束をする程度で、大目に見てくれました。数日の間、何とか我慢出来た直助も恋の病に打ち勝つことが出来ず、やがて女のものに通うようになってしまいました。ある夜、武太夫に急用が出来、直助の寝床を尋ねられたため、直助がすっぽかしていることがばれてしまいました。主人に忠勤を尽くせないようなふらちなやつは一思いに殺してやると、武太夫はカンカンに怒り、抜刀して直助の帰りを塀の内から待ち構えていました。そんなことを何も知らぬ直助が、塀によじ上り頭を出したところを、武太夫の大上段に振りかざされた刀で首筋を切りつけられました。あまりの勢いに無惨にも首と胴体が切断され、首は庭内に、胴は堀の外に、ポコン、ドスンところがり落ちてしまいました。ところが、このことがあって以来、武太夫一家に不祥事、異変が相次いで起こりました。特に頭に関する怪我や病気がよく起こりました。これは、てっきり直助のたたりだといわれるようになり、小さな社殿を建てて手厚くお祭りすることにしました。また、直助の恋人であった掛茶屋の女も、その後七十余歳で世を去るまで、独身で過ごし、亡き直助の霊を弔ったということです。この社殿は、現在は末広町三丁目の丹病院(小児科本宅)の端にありますが、戦前は田んぼの端っこに、つちとりもちやすずたけや榎の木などのおい茂る中にポツンと建っていました。(美須賀中学校が建築された当初は、校庭の一すみにあったのですが、占領軍から学校にお宮を建ててはならぬというお達しがあって現在の所へ移転しました。)この社殿は、『しどう霊神』と言われ、縁結びの神様として、女の人のお参りが多いようです。また何でもお参りすれば願い事が成就されるとかで、お年寄りのお参りもぽつぽつ見られます。現在、末広町三丁目の町内会の方々が中心になってお祭をしているそうです。
 
所在地:今治市末広町
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78.桶底に消えた良介
  昔、四国八十八か所五十八番の札所作礼山の仙遊寺(真言宗)に、天智天皇が奉納されたといわれる虎の皮の太鼓がありました。この太鼓は、竜宮から上ったものだといわれ、これを叩けば遠く桜井の沖あいまでなりひびきました。ところで、不思議なことにこの太鼓の音がすれば、籠宮から上った太鼓ということからか、魚にとってはご利益があったのでしょうが、漁師にとってはさっぱりで、殆ど漁が出来ませんでした。桜井に五郎兵衛という筋骨たくましい漁師がいました。元来、短気な性格の持ち主であった彼は、ある日、この太鼓が邪魔なのだと、出刃庖丁を片手に山頂まで一気に息をはずませながらかけ上り、仙遊寺の縁側に置いてあった太鼓を、ズブリズブリとさいてしまいました。してやったりと、気をよくした彼が小走りに山をかけ降りていますと、急な坂のところでふとしたはずみに、石につまずいてころび、持っていた出刃庖丁が、運悪く自分の胸に突き刺さって、その場で死んでしまいました。その後、暫くの間、太鼓は雨ざらしになったまゝ縁側に置かれていました。ところが不思議なことに、この仙遊寺の信者であった中寺の某女に、ある日、夢で「この太鼓を早く箱の中へ収めてくれるように」と言うお告げがありました。早速箱をつくって収めました。また、それから後、別に新しく大きな太鼓をつくりました。この古い太鼓は、その後長い間に、皮は殆どなくなったものの虫ばんだ胴が箱に入ったまゝ残っておりましたが、今から四十数年前の昭和二十二年に山火事にあい、新しい太鼓とともに惜しくも焼失してしまいました。なお、この五郎兵衛が転んで死んだあたりの坂を、今でもこの附近の人達は「五郎兵衛坂」と呼んでいます。この五郎兵衛坂は、四国八十八か所五十九番の札所国分寺に向かうまでの、作礼山の新谷の方へ降りる途中にあります。  真偽のほどは別として「五郎兵衛坂」の名のおこりは、五郎兵衛という人が開いたところから来ているのだというように説く人もいます。
 
所在地:今治市天保山町
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79.五郎兵衛と太鼓
  昔、四国八十八か所五十八番の札所作礼山の仙遊寺(真言宗)に、天智天皇が奉納されたといわれる虎の皮の太鼓がありました。この太鼓は、竜宮から上ったものだといわれ、これを叩けば遠く桜井の沖あいまでなりひびきました。ところで、不思議なことにこの太鼓の音がすれば、籠宮から上った太鼓ということからか、魚にとってはご利益があったのでしょうが、漁師にとってはさっぱりで、殆ど漁が出来ませんでした。桜井に五郎兵衛という筋骨たくましい漁師がいました。元来、短気な性格の持ち主であった彼は、ある日、この太鼓が邪魔なのだと、出刃庖丁を片手に山頂まで一気に息をはずませながらかけ上り、仙遊寺の縁側に置いてあった太鼓を、ズブリズブリとさいてしまいました。してやったりと、気をよくした彼が小走りに山をかけ降りていますと、急な坂のところでふとしたはずみに、石につまずいてころび、持っていた出刃庖丁が、運悪く自分の胸に突き刺さって、その場で死んでしまいました。その後、暫くの間、太鼓は雨ざらしになったまゝ縁側に置かれていました。ところが不思議なことに、この仙遊寺の信者であった中寺の某女に、ある日、夢で「この太鼓を早く箱の中へ収めてくれるように」と言うお告げがありました。早速箱をつくって収めました。また、それから後、別に新しく大きな太鼓をつくりました。この古い太鼓は、その後長い間に、皮は殆どなくなったものの虫ばんだ胴が箱に入ったまゝ残っておりましたが、今から四十数年前の昭和二十二年に山火事にあい、新しい太鼓とともに惜しくも焼失してしまいました。なお、この五郎兵衛が転んで死んだあたりの坂を、今でもこの附近の人達は「五郎兵衛坂」と呼んでいます。この五郎兵衛坂は、四国八十八か所五十九番の札所国分寺に向かうまでの、作礼山の新谷の方へ降りる途中にあります。
 真偽のほどは別として「五郎兵衛坂」の名のおこりは、五郎兵衛という人が開いたところから来ているのだというように説く人もいます。
 
所在地:今治市玉川町別所
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80.馬の急死をあてた吉山権七
   元祿時代(1688〜1704)の昔、今治藩に吉山権七という侍がいました。山城の国(今の京都府の南部)の出身で、馬術、砲術の指南役(教授する役)をつとめていました。権七は、馬術が上手なだけでなく、馬の調子を見ることにもすぐれていました。ある日、殿様が、馬に乗られた時、権七は馬の様子を見ていましたが、急に羽織をぬいで、殿様の近くへ走り寄って、「お殿様、早く降りてください。その馬はごたいばを見ています。」と言うと同時に、馬の頭に羽織を着せて、殿様を即座に馬から降ろしました。殿様が馬から降りると、ほとんど同時に馬はばたりと倒れて死んでしまいました。ごたいばを見るというのは、魔物が空中を駆けているのを馬が見ると即座に倒れるということだそうです。また、馬の急病だともいわれます。ある人の説によると、これは石糞(胆石または腸内の結石のこと)の害だといわれ、人によっては見破ることが出来、治療法もあったようです。権七はそれが出来たわけで、馬に乗る時は、常に体調を整え、石糞の症状はないかどうかを調べたそうです。  なお、この権七は、鉄砲を腰につけたまま鳥を撃ち殺したり、遠距離にある板戸の真ん中を射抜く砲術の名人としても有名だったといわれています。
 
所在地:今治市通町
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81.紀州の人の墓
 昔、大浜の沖で船が遭難し、乗っていた一人の男の人が湊の砂浜に打ち上げられました。ある漁師がこれを発見し介抱しましたが、そのかいもなくとうとう死んでしまいました。ところが、どうしたことかその家に不祥事が続きました。そこで拝んでもらったところ、てい重に祭ってほしいという事でした。ところが、その亡くなった人の名前や詳しい住所がはっきりしません。所持品などからやっと紀州(今の和歌山県)の人であることがわかりました。そこで、『紀州之人』と刻んだ石碑を建てて手厚くその霊を弔いました。それから後、不祥事はなくなったということです。  このお墓は、大浜の燈台の下の瀬戸の海を眼下に見下ろすことのできる所に祭られています。
 
所在地:今治市湊町
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