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35.須佐之男命<すさのおのみこと>と旧乃万村
 昔、紀伊の国(今の和歌山県)から幾日も航海されて、現在の大西町九王(旧大井村)のあたりにお着きになった須佐之男命は、天の磐く樟船(普通『磐く樟船』と言えば神話に出てくる伊弉諾尊<いざなぎのみこと>、伊弉諾尊の子、蛭児(伊弉諾伊弉冉<いざなぎいざなみ>二神の間に最初に生まれた子)を乗せて流したという、楠の木で造った堅固な船をいいますが、ここではこの船とは関係なしに、同型の楠の木でつくった船だといわれています。)で品部川を上られました。船から降りられた須佐之男命は、更に牛に乗られて、今の宅間、野間、延喜を経て阿方のあたりを通られようとしました。ところが、阿方の村人の中に、随分意地の悪い者がいて不浄物をかけるなど色々と悪だくみをし、わざと須佐之男命の通られるのを邪魔しました。須佐之男命はいたし方なく、矢田の方にまわられ神宮の地にお着きになりました。ご自身が乗って来られた磐く樟船を置かれた神宮の奥の熊野峰というところで、牛に食物を与えてご自身も休まれました。この磐く樟船が、長い年月の間に化石になったといわれており、今は摩滅して跡を見ることは出来ませんが、古老の話では、以前は須佐之男命のご足跡と牛のえさおけの跡が残っていたそうです。−「予陽俚諺集」には駒(馬)の足跡とありますが、この地の人は牛のように語り伝えています。−古老の話では、明治の始めころまでは、野間神社の祭礼の時に、この石の上に神輿を乗せてお祭りをしたということです。野間神社には、御祭神のお一人として須佐之男命をお祭りしておりますが、その元をたぐれば、案外この巨石を対象として発達してきたのかもしれません。一般にこの巨石は磐境<いわさか>とか磐座<いわくら>といって、神がご座されているものだと考えられていたようです。この地の人は、この巨石を「石神さん」と呼んでいます。この「石神さん」は、野間神社から約一キロ足らず離れた向という部落の奥にあります。なお、この阿方と山路を、須佐之男命が通らなかったということから、旧乃万村のうち阿方と山路は、野間神社の氏子に入っていないのだといい伝えられています。今治市に合併(昭和三十年−1955−)前の乃万村時代は、春のお祭りの日どりも違っていました。それと、今一つ興味深いことは、この神宮の地で毎年十月に五回にわたり「わらこし」(詳しくは「わらみこし」といいます。)と言って新しいわらで作った五体のみこしを子供がかついでまわり、あとで甘酒をよばれるという風習がずっと以前から残っています。この甘酒をよばれるということは、例の神話に出てくる須佐之男命が八岐の大蛇におけに入れた八塩折の酒を飲ませて退治したことに、また、わらこしをかつぐということは、大蛇退治のことが縁となって須佐之男命の妃となられた稲穂の神様といわれている奇稲田姫<くしなだひめ>に、それぞれなんらかの関係がありそうです。
 また、このあたりで亥の子の時に子供がよくつく、俗にいう「ごうりんさん」は、須佐之男命が乗っていた牛がある時、石につまずいてけがをしたということで、縁起をかついで、この野間神社のある神宮では全然つかないという風習が昔から残っています。そのかわりに、勇猛果敢なご性格の須佐之男命のみ心をお慰めするという意味で、神社の境内で、子供たちが、相撲をとるという風習がずっと続いています。
 
所在地:今治市神宮
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36.虎退治をした若彌尾命
 昔、神巧皇后が竹内宿禰<すくね>とはかり、御懐妊のまゝ男子の姿を装い、舟軍を率いて三韓征伐をされた時、(201年)安芸国(今の広島県の西部)の飽速玉命の孫に当たられた若彌尾命<わかみをのみこと>が、軍卒の一人として大活躍されことがありました。神功皇后が新羅を討たれようとした日に、大きな虎が突然いずこからともなく現れ、皇后の乗っておられる船をめがけて、猛然と襲いかかってきました。軍兵は皆戦慄き、恐れてあわてるだけでした。若彌尾命は、もしも皇后に危害を加えるようなことがあっては大変と、即座に弓に大きな矢をつがえ、力いっぱい引き、狙いを定め一矢で見事に射止めました。このことがあって、軍兵の士気は一層鼓舞し、大いに勝利を収めたと言われています。皇威を充分外国にまで発揮して御凱旋になった皇后は、大変喜ばれ、この戦功をたたえて、若彌尾命を怒麻(野間)の国造に任ぜられました。この若彌尾命は、以前からこの地にお住いになっておられた野間姫命と結婚され、お二人で仲良く怒麻(野間)地方を開拓されました。現在、お二方とも野間神社(今治市神宮)の御際神としてお祭されています。
 この話のあら筋は、「先代旧事本記」に、また、若彌尾命が怒麻国造に任ぜられたことについては「国造本記」に記されています。
 
所在地:今治市神宮
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37.長慶天皇と牛馬
 今治市玉川町の奈良原山上(1042メートル)には、南北朝の争乱にまきこまれた悲劇の天子といわれている第九十八代長慶天皇(1343〜1394)の遺跡があります。長慶天皇は、文中二年(1373)八月に、人目に触れないように難を避けて、伊予の国府から玉川の里にのがれましたが、更に敵軍のきびしい追跡を受け、奈良原山深くその身を隠されました。その間、長慶天皇にまつわる牛馬にゆかりのある珍しい地名が残っておりますので、二、三紹介してみましょう。
 玉川町大下鮎川里(旧鈍川村)に、『牛追』(うしおい)と言う珍しい地名があります。長慶天皇がのがれられる途中、あめ色の牛を追っている農民に出会いました。この農民が、「歩いていかれるのも難儀なことでございましょう。この牛を差し上げますから、この牛にお乗りになってお逃げください。」と言って勧めるので、牛に乗って逃げました。その際、追手をくらますため、牛を後向きに歩かせて、ひづめの跡を残しながら、あちこちと追ったそうで、牛追の地名もこういったところからきているといわれています。
 また、玉川町鬼原(旧鈍川村)と玉川町長谷(旧久和村)の境の道筋に、『馬斬』(うまきり)と言う変わった地名があります。これは、牛に乗って逃げられる長慶天皇に迫る追手の軍馬を、長慶天皇の家来がこの地で斬り捨てたところからきているといわれています。また、一説には、敵軍が天皇を追って馬斬まで来た時に、馬が立ち止まってしまって、前を向いて進まなくなったので、大将が腹をたてて、馬を二、三頭斬り捨てたともいわれています。斬り捨てた時に、噴水のように鮮血が飛び出し、端にあった大きな石のかたまりに付着したと伝えられ、その跡形や、ひづめの跡といわれるものが残っていたそうですが、数十年前に道路拡張のために砕かれてしまい、今はその跡はなくなり、わずかに、道の片すみに、石のかたまりの一部が名ごりをとどめています。
 また、染井吉野桜の大群地帯として知られていた(今は枯木になってしまっています。)千疋峠(玉川町木地、旧鈍川村)についても、一時勢力を盛り返した長慶天皇の千匹の馬をつないだとか、いろいろ馬にまつわる話が残っています。この千疋峠を越えて敵軍を破った天皇方が、『竹成』(「たけがなる」とも「たけのなる」とも言います。−玉川町−)のあたりで閧の声(武士たちが「一齋にあげる叫び声)をあげたとか。『竹成』の地名は、「閧成」(ときがなる)がなまって、「たけがなる」となったのだと伝えられています。しかし、多勢の前には所せんかなうことが出来ず、やがて逆襲を受けて破れ去り、長慶天皇は、山中深く身を隠されることになりました。
 以上のように牛馬にまつわる伝説が多い長慶天応は、牛馬の守護神として、奈良原山上に、奈良原神社の祭神としてお祭りされており、近郷の人々の参拝も後をたちません。なお、長慶天皇のご行動や亡くなられた土地については、諸地方にいろいろの伝説が残っており、このあたりの伝説そのものについても、他にいろいろいわれていますが、ここではその点に触れることを省略します。
 
所在地:今治市玉川町鈍川
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38.鉄人退治と越智益躬
 今から千三百数十年の昔、(三十三代推古天皇の時代)、三韓に鉄人(鉄大人ともいいます。)と名乗るとても強くて悪賢い武将がいました。鉄人は、その名のように常に鉄のよろいで全身を固め、その正体を隠していました。鉄人は三韓の兵八千余人を従え、勢いに乗じて筑紫の国(九州の古称)にやって来ました。日本軍も防戦に努めましたが、やっとのことで包囲したかと思うと、風雨の術を使って惑わすという有様で、常とうでは手のほどこしようがなく、各所で大敗し、多くの戦死者を出しました。鉄人は人を殺しては食うといううわさがあり、とても悪らつな方法で人々を痛めつけたので、年寄りや女、子供は山林に身を隠し、日夜恐怖におののき、そのあわてぶりは目もあてられぬほどでした。筑紫の国で猛威をふるった鉄人は、更に都の方へ攻め上がろうとする気配をしめしました。さっそく、朝廷の命により、文武両面に秀でたこの地の越智(小千)益躬<ますみ>が、討伐の将としてつかわされることになりました。とりあえず、益躬が三島明神へ七日七夜おこもりをしてお祈りをしたところ『鉾を鏃にして隠し持ち鉄人のすきをうかがって誅す(殺す)べし』と言う神のお告げがありました。いざ鉄人に立ち向かってみると、うわさ以上に荒っぽく、武力では到底勝ち目のないことを知りました。そこで、益躬は、鉄人の家来にしてもらい、日夜そのすきをうかがうことに努めましたが、用心深い鉄人にはほとんどそのすきがありません。やっとのことで、馬上にある鉄人の足の裏に、わずかに穴があいているのを見つけました。ある時、周囲の景色にみとれ、興にふけって油断をしているのを、三島明神のご霊験の現れとばかり、ふところに隠していた鏃を投げつけ、うまく命中させて討ち取りました。大将を失い、あわてふためく鉄人の家来どもを散々に打ち破り、逃げた者を生け捕りにし、手をあわせて助命を乞う者を獄舎につなぎ、鉄人の委細を問いただしました。委細を知った益躬は、討ち取った首を手にし、宮中に参上し、朝廷に鉄人のことについて申し上げました。朝廷は非常に喜ばれ、益躬に伊予の国(今の愛媛県)越智郡の大領(郡の長官)の役を任じました。その後、益躬は播州(今の兵庫県)大蔵谷に一社を建立して、鏃を奉納したということです。
 益躬は、また若い時分から仏教を深く信仰し、昼は法華一部を、夜は念仏をいつも唱えることを怠らなかったそうで、実に立派な往生を遂げたと伝えられており、「今昔物語」(巻十五、本朝付仏法『伊予の国越智益躬往生ものがたり』)に次のような話が書かれています。西の方に向かってきちんとすわり、手をあわせて念仏をとなえながらこの世を去りましたが、その時、村人たちは空に微妙な音楽がかなでられたのを耳にしました。また、何ともたえようのない香ばしい薫りが家々に満ちあふれたそうです。この余りにも不思議な出来事に、村人たちは、非常に感激し、涙を流して敬意を表したということです。
 旭町五丁目にある鴨部神社は、神部大神として益躬をお祭りした神社です。
 
所在地:今治市旭町
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39.南朝の忠臣脇屋義助
 脇屋義助(1307〜1342、没年については異説もある。)は南北朝時代に南朝の中心となって、兄新田義貞とともに活躍した人物でした。脇屋家は足利氏とともに源氏から出上野国(今の群馬県)の新田郷脇屋の豪族でした。建武の新政の時、後醍醐天皇の命に従い鎌倉幕府を攻めて北条氏を滅亡させました。その後、足利尊氏が後醍醐天皇側に背いてから後もあくまでも南朝の天皇側に従いました。中国四国の総大将として南朝の勢力集結をはかり、業半ばにして病に倒れました。世田山(東予市と今治市の境)の城主、大館氏明は甥にあたります。義助の廟並びに神社は国分寺の東約500メートルの所にあります。(今治市国分寺4丁目4−56)
 公家を忠心とした建武の新政が崩れると吉野側の南朝と京都側の北朝の二つの政府が互いに正統と主張して争いました。南朝を支持したのは建武の新政権の中で優遇された新田、楠木、名和などの各氏の武士、皇室領などと関係をもつ寺社勢力、同族部内の対立で対抗上南朝に走った者でした。これに対し足利尊氏が立てた持明院統の光明天皇の朝廷側北朝は多数の武士に支えられて圧倒的な優位に立っていました。南朝の忠臣義助は兄義貞と行動を同じくすることが多く東奔西走しましたが、暦応元年(1338)藤島の戦い(福井市灯明寺町)で義貞が斯波高経の軍に敗れ戦死してからも軍をまとめて奮闘しました。北陸中部を経て吉野に入り、懐良親王が九州へ去った後伊予の宮方の要請で四国総大将として下向することになります。そのことが太平記の巻二十二の「義助豫州下向事」と「義助朝臣病死事付鞆軍事」の二つを抜粋しながら簡単に紹介します。
 「去る程に、四国の通路開けぬとて、脇屋刑部卿義助は、暦應三年四月一日勅命を蒙って、四国西国の対象を承って、下向とぞ聞えし……」(そうしているうちに四国への通路が開けたので脇屋刑部卿義助は暦応三年四月一日勅命により四国中国の大将として伊予の国へ出発されるとの事であった。……)「されば大船数多汰へて、四月二十三日、伊予国今張浦に送り著き奉る。」(それゆえ大船を多数仕立てて、四月二十三日に伊予国の今治の浦へ送りつけられた。)「大将下向に彌勢を得て、龍の水を得、虎の山に靠るが如し、其威漸く近國に振るひしかば、四國は申すにおよばず、備前、備後、安藝、周防乃至九國の方までも、又大事出来ぬと云わぬ者こそ無りけれ、されば當國の内にも、將軍方の城僅に十餘箇所有りけるも、未だ敵も向はぬ先に、皆聞落としてんければ、今は四國悉く一統して、何事か有るべきと憑敷く思ひあへり。」(大将脇屋義助の下向によって水を得た龍、山に放たれた虎のように勢いづいて威を近国に振ったので四国はむろんのこと備前<岡山県南東部>備後<広島県東部>安芸<広島県西部>周防<山口県東部>など九か国の方までもまたまた一大事が起こったという噂でもちきりだった。それゆえ伊予の国内にも十数か所に足利方の城があったが、まだ、敵が押し寄せもしない先に噂を聞いただけでみんな逃げ出してしまったので今や四国全土が南朝の手に統一されて、前途に大きい希望を抱くことができるようになり末頼もしく思われた。)「斯る處に、同五月四日、國府に坐られたる脇屋刑部卿義助俄に病を受けて、心身悩亂し給いけるが、僅かに七日過ぎて終に敢なく成り給ひにけり。」(ところがその年の五月四日国府に滞在していた脇屋刑部卿義助が突然発病して悶え苦しみ僅かに七日間で死んでしまった。)〔( )の現代語訳は主に「日本国民文学全集」第十巻太平記尾崎士郎訳河出書房を参考にする。〕
 このようにして武家の北朝と対立した南朝の忠臣義助は本営を国府に置いて味方を募り勢いを盛り返そうとしましたが、やんぬるかな病にかかり急死するという思いがけぬ事態となってしまいました。年僅か三十六歳でした。義助の病死に乗じて武家の細川頼春が讃岐<今の香川県>から伊予へ入り宇摩郡、新居郡から周桑郡の世田城を攻めたてました。城主大館氏明は衆寡敵せず善戦空しく敗れ伊予の南朝方の勢は衰えていきました。なお、強力無双で知られた篠塚伊賀守が世田山と峰伝いの笠松城(朝倉村)でただ一人敵中を突破し陰の嶋(現在の魚島とされている)へ逃れたという武勇伝が太平記に書かれています。(このあと40強力無双篠塚伊賀守重広に出てきます。)義助の病死についてはいろいろに言われていますが一説にはおこり(瘧と書く。隔日または毎日一定時間に発熱する病)ではないかといわれています。戦が好転のきざしがあっただけに志半ばの義助の死は南朝側にとっては大打撃でした。彼の功績をたたえ寛文九年(1669)七月国分寺山の西麓の字谷の口に今治藩士町野弾右衛門・首藤又右衛門・国分寺住職快政・国分村庄屋加藤三郎右衛門等の尽力により墓碑が建立されました。高さ80センチ、3メートル四方の石壇の上に高さ約1.5メートルの立派な石碑で、正面に「脇屋刑部卿源義助公神廟」とあり左右にやや小さい目の字で「清和天皇十七代」「暦応三年五月十一日」と彫られています。また、文政二年(1829)廟の近くに儒学者佐伯容斉が貝原益軒(1630〜1714、江戸時代前期の儒学者・教育家等)の義助の徳をほめたたえて書いた「脇屋公賛」と石に刻んで奉納しています。また、今治藩家老江島爲信は灯籠や玉垣を寄進しています。明治三十四年(1901)国分寺住職中野堅照の提案によって脇屋家の子孫の人たちが「脇屋会」を創設し600年遠忌の昭和十六年(1941)には全国的な「脇屋同族会」を結成しており、平成三年(1991)には650年遠忌を盛大に行っています。また、大西町の脇は義助の亡きがらを葬った所といわれ、今も脇塚が祭られていると言われています。
 
所在地:今治市国分
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40.強力無双篠塚伊賀守重広
 今治市の桜井と東予市の楠にまたがる山に世田山(標高328・2メートル)が、またこの山の西に接した峰続きに笠松山(標高328メートル、朝倉村)があります。いずれもその昔古城のあった所で、武士たちが奮闘したドラマが秘められています。
 南北朝時代の昔、笠松城下に篠塚伊賀守広重という武士がいました。伊賀守は、南北朝の武将新田義貞の家臣で、四天王の一人として強力無双でその名を天下にとどろかせました。新田一門の国府城の脇屋義助、世田城の大館左馬助(左馬介とも書きます。)らが南朝方の勢力を取り返すように努めましたが、義助が興国三年(1342)に病死してから足利方の細川頼春勢の猛攻を受け、世田城、笠松城と次々と落とされてしまいました。その間の氏明や伊賀守の奮戦の様子が『太平記』巻二十二に「大館左馬助討死事附篠塚勇力事」と題して詳しく書かれています。太平記の記事は多少大げさに述べている面があり、必ずしも全部事実とはいえないと思いますが、落城のてんまつが手にとるように生き生きとよく描かれています。次に原文をまじえながらその大要を述べてみたらと思います。
 川之江城を攻略した細川勢の大軍が一万余騎を七手に分けて、八月四日から十日余りにわたって世田城を攻めたてました。城内では主力として信頼されていた岡部出羽守が、一族四十余人とともに日比澳(西条の氷見沖ではなかろうかといわれています。)で自害してしまい、その他の兵士も千町原(周桑平野の一部といわれています。)の戦いで戦死したので、手薄になってしまい、細川勢の攻撃を防ぎようもありません。氏明は、九月三日の明け方、主従十七騎で一の木戸(城門)へ打って出て、五百余人の敵をはるかふもとへ追い払って、一せいに腹を切って最期を遂げました。それまで防ぎ矢を射ていた兵士たちも、もはやこれまでと敵と取組んで死んだり、自分の陣屋に火をかけて自害する者が続出しました。このような中にあって篠塚伊賀守一人だけは、大手の十二の木戸をことごとく開けて突っ立っていました。それではその時の伊賀守の奮戦の様子を原文(一部現代語訳をしています。)で紹介しておきましょう。
 紺糸の甲に、鍬形打ちたる冑の緒を縮め、四尺三寸有りける太刀に、八尺余の金撮棒脇に挟みて、大音揚げて申しけるは、外にては定めて名も聞きつらん、(名を聞いたであろう、)今近附いて我をしれ、畠山庄司次郎重忠に六代の孫、武蔵国に生長って、新田殿に一人当千と憑まれたりし篠塚伊賀守爰にあり、討って勲功に預れと呼はりて、百騎許り控えたる敵の中へ、些も擬議せず走り懸る、(少しもためらわず走りにかかった)其勢事柄勇鋭たるのみならず、兼ねて聞えし大力なれば、誰かは是を遮り止むべき(誰が遮り止めることができようか、誰も遮り止めることはできない。)百余騎の勢、東西へ颯と引退いて、中を開いてぞ通しける、(道の中を開いて通した、)篠塚馬にも乗らず、而も誰一人なれば、何程の事か有るべき、誰近附く事無くて、遠矢に射殺せ、返合せば懸悩して討てとて、(ひき返して来たら懸悩して撃ちとれとて、)藤、橘、伴の者ども、二百余騎跡に附いて追懸くる、篠塚些しも騒がず、小歌にて閑々と落行きけるを敵あますなとて追懸くれば、(敵が「逃すな」と追いかけると、)立ち止まって、嗚呼御辺達痛く近附いて(あまり近付いて)首に中違ひすなとあざ笑うて、件の金棒を打振りければ、蛛の子を散すが如く、颯とは逃げ、又村立って跡に集り、(一たんは逃げ、やがてむらがって跡に集り、)鏃を汰へて射れば、某が甲には旁のへろへろはよも立ち候はじ、(立つまい)すは此を射よとて、後を差向いてぞ休みける。(さあここを射よ、と言って後を向いて立ち止まる)されども名誉の者なれば、一人なり共若しや打止むると、(誰か一人撃ちとめる者があるかもしれないと)追懸けたる敵二百余騎に、六里の道を送られて、其夜の夜半許りに、今張浦にぞ著きたりける。(その夜の夜半ごろに、今張の浦についた。)(『物語日本史大系』第五巻、−太平記上−早稲田大学出版部発行、<昭和三年>408頁、ふりがなの一部は現代かなづかいに訂正しています。まだ筆者の方で適当にふりがなをつけた箇所もあります。)〔( )の現代語訳は、主に「日本国民文学全集」第十巻太平記尾崎士郎訳河出書房を参考にしました。〕
 伊賀守は、このあと隠岐島(沖ノ島とも書かれ、越智郡魚島と伝えられていますが、広島県の因島市という説もあります。)へ落ちのびます。落ちのびる時、敵が乗り捨てている船によろいを着たまま、波の上五百メートル余りを泳いで乗り込みました。恐れおののいている船頭やかじ取りをしり目に、二十人余りでやっと持ち上げることのできるいかりを軽々と引き上げて、一四、五尋(約25〜27メートル)もある帆柱を軽々と押し立てて、屋形の中へ入って高いいびきをかいて寝込むなど、強力無双ぶりを発揮したということです。
 その後、隠岐島から大浜にやって来て、ここで余生を静かに送ったという俗説もあります。一部では大浜南の薬師寺の近くのお墓が伊賀守のものだといわれています。大正時代(1912〜1925)に墓を掘り起こしたところ、すばらしい体格のよい人骨や刀剣が出土されたそうです。伊賀守が疫病(彼の場合、チフスではないかといわれています。)にかかり亡くなったとかで、伝染病や腹痛にご利やくがあるといわれ、参詣者もぼつぼつ見られます。伊賀守の墓については、魚島にもあるといわれ、異説があってはっきりしたことはわかりません。なお、近見の伊賀という所は、伊賀守と何らかの関係があるのではないかという人もいますが、これも詳しいことはわかりません。
 
所在地:今治市桜井〜西条市楠
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41.四国一伝流南葉一本斉
 今から約四百年程前の永禄元亀年間(1515〜1573)の昔に、四国一伝流の元祖と言われた南葉一本斉が、修行のため諸国を遍歴中、この地方に来ていて、清水地区で瘧(隔日または毎日一定時間に寒熱を発する病気でマラリヤのようなもの)に罹り、五十嵐の地で亡くなりました。四国一伝流というのは、棒、腰の廻り太刀、薙刀等の体術の流儀で「武術流祖録後輯流名」と言う有名な武術の本にもその名前が出ており、全国的にもかなり知られていたようです。一本斉は、奥州伊達郡(この場合今の福島県伊達郡)の生まれで元奥羽西国の主、鎮守府将軍藤原秀衡朝臣の子孫であると言う以外に詳しい経歴はわかりませんが、四国一伝流の名を全国にとどろかせた俗に言う豪傑であったようです。多くの門人は、一本斉の死を痛み、墳墓を建てて懇ごろに弔いました。ところが、長い年月の間に墳墓は苔むし、荒れ放題になってしまいました。それを寛政八年(1796)に資金を出しあい、新しい立派な石碑を建ててお祭りしました。今、この石碑は五十嵐にありますが、石碑の全面には『南葉一本斉北窗乱関之墓』とあり、側面、背面に、一本斉の略歴や建碑の由来が簡単に銘記されています。近郷近在の人々は瘧(隔日または一定時間に発熱する病)の神様として一本斉を崇め奉り、参詣者も多いそうです。
 今から約五十年程前の大正九年(1920)に、四国一伝斉参百五拾年祭記念として、五十嵐の浄寂寺(臨済宗)の境内で、この四国一伝流の流れをくむ者が、浅山一伝流や天真用流の人々と合同(檜垣助一五段等七十余名)で、くさりがま、棒、腰の廻り太刀、剣、薙刀、捕縛等を用いて妙技をふるったということで、今も浄寂寺にその時の奉納額が掲げられています。
 
所在地:今治市五十嵐
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42.龍門山城主武田信勝の最期
 天正十年(1582)十二月八日、小雨まじりで風の強い日に、白馬に乗った軍勢四、五十騎が朝倉村浅地の長円寺谷に攻めて来ました。敵軍は、ここに馬を置き、龍門山城へ攻め登り、城へ火をかけました。不意を打たれ、急のことであったので、城の中は混乱をきわめ、散々の体で逃げ惑う始末、城主近江守武田信勝は、城の北谷にやっていって声をはりあげ「敵は誰か、名は何と申すか、早く名のれ……」と呼ばわりながら奮戦しました。しかし、多勢に無勢、加えて裸身同様の身、さすが気丈な信勝も深手を負い、やむなく城を明け渡しました。戦いに疲れはて、空腹にたえながら落ち延びていたところ、川上から里芋の親頭が流れているのを見つけました。信勝は、それを拾って食べ、暫く飢えをしのいだと言うことです。その後、信勝は、周桑郡三芳町黒谷の野辺で百姓に討たれて最期を遂げました。−戦場で討死したと言う説もあります。なお、墓は朝倉村浅地にあります。−朝倉村浅地に馬木戸と言う地名が残っていますが、信勝の後裔は不吉のいわれありとして、一切ここでは白馬を飼わなかったと言うことです。
 なお、この信勝の苦しみをいつまでも忘れないようにするため、また先祖のことを偲ぶために、毎年元旦には、餅を入れた雑煮の代わりに、里芋の親頭を雑煮にして食べているとのことです。この信勝のことについては、今治市五十嵐と隣接した玉川町八幡の武田寅吉氏方の「南海道伊予国源姓武田系図」に掲載されています。
 
所在地:今治市朝倉上
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43.槍の名人田坂槍之助
 戦国時代のころ、来島城主久留島氏丹後守康吉の家臣に、田坂槍之助(鑓之助とも書きます。)貞掾という武芸に秀でた来島水軍切っての豪勇無双の武士がいました。槍之助という名は主君より命名されたものだそうで、彼の槍の妙技はすばらしいものであったということです。
 ある時、来島瀬戸を十反帆ばかりの船に乗った芸州(今の広島県)佐伯氏の家臣二十数名が、海の通行税である帆別銭を払わずに強引に通過しようとしたことがもとで、槍之助と決闘になったことがありました。槍之助が小舟に乗ってこぎつけ「帆別銭を出して行け、天下の法をないがしろにする奴はほうっておけぬぞ。」とどなりつけると、多勢を頼んだ武士どもは、「この広い海を通さぬようにと関所を設けたりするのは傑作じゃ、帆別銭がほしいのならどこまでもついてくるがよい。」とあざ笑う始末、槍之助は腹にすえかね、「もはや容赦はならぬ。問答無用なり。」と槍をしごいて突きかかりました。相手方の武士たちもメンツにかかわると、刀を抜いて防戦しましたが、たちまちのうち、二人が突き伏せられました。海上の戦いは、槍之助にとってはお手の物、潮に流されて船が桜井の志々満が原のあたりから江口の浜辺に着いた時には、八人が突き倒され、六人が深手を負わされるという有様、負けいくさに色を失った武士たちは、海上での戦いは慣れぬゆえ、所せんかないっこなしと考え、陸上で勝負をしてくれるようにと、両手を合わせて懇願しました。義理人情に厚い槍之助は、相手方の望みをかなえ砂浜で果し合いをすることを聞き入れました。ここでも、七、八人の武士にとり囲まれながら、たちまちのうち五、六人を突き伏せたり、傷を負わせたりしましたが、そこは人間、ついに力つき深手を負い、打たれて首を取られてしまいます。しかし、生き残った相手方の武士はわずかに五人、そのうち無傷の者がただ一人だったというから、槍之助の腕前に驚くほかありません。生き残りの武士たちが、槍之助の首を塩づけにして芸州まで持ち帰り、佐伯侯に事情を話して見せたところ、法にそむいた上、たかが一人のために散々な目に会うとは、武士として見苦しきふるまいなりと、即刻全員追放させられたとか。
 里人は、法を守るために身命をもかえりみなかった正義感にとんだ槍之助をたたえ、その亡きがらを桜井の入江の浜にねんごろに葬りました。その後、墓前を馬に乗ったまま通れば、必ずもだえ苦しむという奇妙な現象が相い次いだので、里人は、これは迷える霊のたたりではないかと考え、小さい社を設け、江口八幡宮(入江の八幡宮ともいいます。)と称して、その霊をてい重にお祭りしました。−現在この小さい社は、沖浦(旧桜井町沖浦)の江口山(俗に明神山という人もいます。)の頂のながめのよい所にあります。また、現在桜井の網敷天満宮の境内にも小祠が設けられています。なお、小さい社を設けた時に、次の一首を献納して神体としたということです。
 槍水の流れ涼しき田坂氏
  末まで磨く玉鉾の道
 この槍之助の話は、一種の人物伝ですが、異彩を放つ豪傑のわりに、余り知られていない人物であるのでここで、とりあげてみました。
 この話は、「河野軍記」や「与陽盛衰記」と言う書物にも詳しく出ています。
 
所在地:今治市朝倉上
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44.仏さんに閉門を申しつけた河野源六
 神さんや仏さんが人間に命令するということはよくあることですが、逆に人間が仏さんに命令するという風変わりな話が残っています。
 昔、町谷の歓喜寺の近くの街道に小さなお堂がありました。そのお堂に河野源六とその一族の供養塔が祭られていました。このお堂の前を源六が馬に乗って通っていると、奇妙に決まって馬から落ちるのです。腹を立てた源六は、仏さんに向かって「閉門を申しつける。」と言って、板を斜めに×じるしに打ちつけてしまいました。このことがあって後、源六は落馬せぬようになったということです。
 町谷の街道は、今は細いあぜ道程度のものになっていますが、昔はかなり道幅もあったようです。現在道の上の歓喜寺に移してお祭りしており、お堂のあった箇所は、『河野源六一族之墓跡』(昭和三十四年十一月建立)と言う石碑が建っております。実際は、宝篋印塔で供養塔の一つですが、上に移す時に人骨が大分出たということでお墓として祭られています。源六の経歴については一切わかりませんが、歓喜寺に『源光院徳巌圓智居士神像』(表)『じ大永七丁亥十一月九べい河野苗裔俗名源六』(裏)と書かれた位はいがあります。この位はいから見ると相当身分の高い武人であったようです。大永七年(1527)に亡くなっていますが、これは室町時代の末期に当たります。
 現在新暦八月二十一日が縁日になっており、子供が小部落ごとに金を集めて、お線香、お菓子、果物等をお供えしてその霊をお祭しています。
 
所在地:今治市町谷
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45.忍者・川路小兵衛
  昔、今治藩に川地小兵衛という忍者がいました。将監様(今治藩主四代定基候の隠居後の名)や今治藩第五代藩主定郷が、大勢の家来を召し連れ、今の玉川町の野原へ巻き狩に行っての帰り道、高橋のあたりでもう日がとっぷり暮れて、ちょうちんなしには前へ進むことがむずかしくなりました。将監様は、小兵衛を呼び「忍術使いのお前のことだ。何とかしてくれ。」と頼みました。小兵衛がじゅ文をとなえて忍術をかけると、不思議や高橋から今治城下の蔵敷まで道の両側にずらりとちょうちんがともり、あたかも真昼のようになりました。おかげでポカポカと馬のひずめの音も高らかに、全員無事に帰ることが出来ました。ところで、この小兵衛の最期については、やはり忍者らしく、いろいろに伝えられています。宝永三年(1706)に今治藩より追放の憂き目にあいましたが、これについては、勤務状態が悪い上へもってきて、しばしば奇怪な魔術をつかって人を惑わしたかどによるとか、派閥争いの渦中に巻き込まれたためだとか、理由もない妻を手討ちにしようとしたからだなどいろいろにいわれています。また、小兵衛は、追放の命により、讃岐の国(今の香川県)へ向かいましたが、その道中ふとした勘違いから、舟の中で人を殺傷したことがもとで、大島の吉海町田浦で包囲され、斬殺されました。大きな岩の上に腰掛け、刀を抜き、寄らば切るぞの身構えをしている彼を銃で射殺したとか。また、岩の上にいる彼を、ある足軽がねらい撃ちしたところ、何の手ごたえもなく、その近くに干していた衣を撃ったところ、もんどりうって倒れたとか。いろいろ変った話が残っています。大島の島四国一番札所正覚庵(吉海町田浦)を川路さんを呼ぶこともあり、大岩のあたりが小兵衛の最期の場所だと言われています。
 
所在地:今治市高橋
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46.弟子に早変りした源吾師匠
 江戸時代の終わりころ、山方町の今城という所に、檜垣源吾信一という剣術家がいて、道場を開いて多くの門弟を養成していました。この源吾師匠は豪勇無双である反面、優しくまた頓知にとんだ人であったので、里人からたいそう親しまれました。剣道の練習の合い間は、近くの畑で百姓仕事をするのが日課になっていました。ある日、道場の前で唐うす(踏みうす)でどすんどすんと麦をついていたところ、一人のがん健な体をした武者修行中の男が源吾師匠の家を訪れました。男は「拙者は先生と試合をいたしたく参った者だが、先生はおられんか。」と尋ねました。源吾師匠が「今日はあいにく留守をしていて、先生はいないので、あいすまぬが、またの機会にお来し願えまいか。」と言うと、男は「それではいつまでたってもよいから、待たしてもらおう。」と言って、上がり口の縁側にどっかと腰をおろしました。そこで、源吾師匠は「あまり待ってもらうのもお気の毒じゃから、拙者が先生が帰られるまでお相手いたそう。」と試合を申込みました。男は「お前らの木っぱでは相手になりそうもないが、一丁もんでやろう。」としぶしぶ承知しました。しばらく両者がにらんでいたが、やあと声がかかったかと思うと、男は源吾師匠の一撃で脳天を打たれ、その場にもんどりうって倒れ気絶してしまいました。気を取りもどした男は、「弟子がこんなに強いのなら、先生はどんなに強いことだろう。参った。参った。」とほうほうの体で逃げ去ってしまいました。してやったりと源吾師匠は腹の底からワハハハ……と大声で笑いました。
 この源吾師匠は、居合流派の一つである浅山一伝流の流れをくむ人(第十一代)といわれますが、経歴はほとんどわかりません。山方町二丁目の海禅寺(臨済宗)境内に、源吾師匠の師匠に当たる鈴木重治政一(浅山一伝流伝来十代、寛政四年−1792−歿)の墓があり、その墓碑に建設者の一人として檜垣源吾信一の名前が刻まれています。ちなみに、浅山一伝流については『図説古武道史』(綿谷雪編、青蛙房発行)に「もとは、剣、柔を中心に、小太刀、槍、鎌、忍術、毒害、捕手、杖、棒、手裏剣を総合して、浅山一伝流体術といった。伝統は上州(今の群馬県)碓氷の郷士、丸目主水正則吉(幼名は三之助)に発し、国家彌左衛門を経て浅山一伝斎を中興の祖として諸国に広まった。」とあり、柔剣道の一派で全国的にかなりひろまったようです。
 
所在地:今治市山方町
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