大都市圏販路開拓支援 いまばり創業応援ネットワーク 今治就職支援サイト ハタラク ビジネスモール 商取引支援 しまなみ大使 婚活イベント 日本遺産 村上海賊



1.郷のお地蔵さん
 昔、ある庄屋の女中さんが庭で仕事をしていると、一羽の勇壮なタカがどこからともなく舞い降りてきました。
女中さんは、これは珍しい立派なタカだとほうきでもってつかまえようとしましたが、誤ってその首を押え殺してしまいました。
このタカは、来島山の城主がタカ狩に使っていたものでした。このことが、城主の耳にはいらずにはおりません。城主はたいそう怒って打首のお仕置きを命じました。たかがタカ一羽のために、あたら若い命を捨てねばならない羽目におちいったのです。いよいよ、打首寸前ということになりました。しかし、この女中さんは少しもおどおどする様子もなく、じっと両眼を閉じて平然としておりました。この場に立ち合っていた城主や役人は、不思議に思ってそのわけを尋ねました。女中さんは、「私にはいつもはだ身離さずつけている守り本尊のお地蔵さんがいます。すべてをこのお地蔵さんにお任せしております。」と言って、お地蔵さんをふところから出して、うやうやしく伏し拝みました。役人が刀をまっこう上段にかまえましたが、どうしたことか手がわなわなふるえて切ることが出来ません。城主は、お地蔵さんの不思議な威光に驚き、感激して刑のとりやめを命じました。このことがあって後、城主は、このお地蔵さんを厚く崇拝し、お地蔵さんをお祭りする本堂を建立し、「来島山地蔵院附嘱寺」と名付けました。
 このお地蔵さんは、惜しいことに昭和5年(1930)に火事で焼失しましたが、その後、すぐもとの場所へ石のお地蔵さんがつくられました。なお、このお地蔵さんは、このあたりの人たちからも「郷のお地蔵さん」と親しまれており、年に二回の大法会(1月23日と8月23日)には、大勢の参詣人でにぎわいます。お地蔵さんは、肩のあたりから下に水が流れるようになっており、この水がとても目にご利益があるといわれ、別に「清水のお地蔵さん」とか「目のお地蔵さん」と呼んでいます。
 
所在地:今治市郷本町
目次へ戻る


2.浜のお地蔵さん
 喜田村の石風呂の海岸に、やさしい顔つきをした2つのお地蔵さんが、瀬戸の海を静かに見つめています。このお地蔵さんは、浜のお地蔵さんとか、石風呂のお地蔵さんといわれ、土地の人々の尊信を集めています。古い方のお地蔵さんは、文政5年(1822)、新しい方のお地蔵さんは、大正11年(1922)に、それぞれが作られており、このお地蔵さんにまつわる話は、古くから地元の人たちに語り伝えられています。
 江戸時代の昔、広島県の能地のある娘さんが婚礼をひかえ、調度品をそろえるため、兄の船頭で、母親と一緒に、今の東予市の三芳へ買物に来て帰る途中、風波にあい船が転覆しました。兄は、喜田村と東村の境の海辺に泳ぎ着きました。しかし、沖の方で波間に浮きつ沈みつしている母親と娘さんの姿を見た兄は、何とかして助けようと、また沖に出、三人とも帰らぬ人となってしまいました。後日、その遺体が喜田村の浜に上がりました。それまでにも、よく喜田村や東村の浜で遭難した人たちの遺体が上がるので、村人たちはお地蔵さんと建立して、てい重にお祭りしました。古いお地蔵さんがそれです。以来、村人たちの手で供養が続けられ、旧暦の7月24日には、このお地蔵さんの前で、盆踊りをする習わしが伝わっていました。なお、この3人の遺体を身内の人に引き渡す際に書かれた証文が、今もって喜田村の原の小沢宇之輔氏方に残っています。─藩政時代のこと故、他藩の者の死体引渡しが厳重であった様子がよくわかります。─
 また新しいお地蔵さんは、地元のある人がなくなってその供養のため、つくられたといわれています。─他に、別の所に祭られていたのを、この箇所に一緒に安置したのだという説もあります。─
 この2つのお地蔵さんは、海難防止の役目をしており、その後、この喜田村の海岸では、事故の発生もほとんどなくなったとか、特に子供の水難は、全然起こってないということです。
 このお地蔵さんは、赤子のために乳を授けてくれたり、熱病をいやしてくれるのに大変ききめがあるとされ、遠近の人々の信仰をあつめているといわれています。
 古老の話では、乳の方は、「子供が生まれましたら、必ずよだれかけを差し上げますから、どうか乳をお授け下さい。」とお願を掛け、後日その約束を果すとよいとのことです。
 熱病については、「お盆には踊りますから熱を下げて下さい。」と言って、お願を掛けるとよいとか。
 真偽のほどは別として、今も2つのお地蔵さんには、よだれかけがきちんと掛けられています。そして、いつも、だれかの手で花が供えられています。また、先に述べたようにこのお地蔵さんは、踊りがお好きだと見え、旧暦の7月24日には、お地蔵さんの前で地元の人が盆踊りをしてにぎわっていました。最近は8月のお盆の14日、15日にこの近くの浜辺で喜田村の有志の人たちが盆踊りをしています。このお地蔵さんは近頃は少し位置が変わっています。
 
所在地:今治市喜田村
目次へ戻る


3.鳥越のお地蔵さん
 五十嵐の鳥越に、俗に鳥越のお地蔵さん(正式には鳥越地蔵尊といっています。)と呼ばれる3つのお地蔵さんがあります。このお地蔵さんには次のような悲話が秘められています。
 昔、八幡山の近くの山の頂に城下塔(玉川町にあり、城の塔ともいいます。)という城がありました。ある時、戦争が起こり、城主や家来の奮戦健闘も空しく、敵の猛攻にあって城を落とされてしまいました。城主は愛する妻と2人の娘を残して、自害してしまいました。妻と娘たちは、父の霊を慰めながら人目をしのんで、さびしい毎日を送っていましたが、傷心のあまり病の床に倒れました。そして、3人ともこの世を去ってしまいました。─一説には、お姫さんが落城の際自害したともいわれています。─あわれに思った村人たちは、お地蔵さんを作って、てい重にお祭りしました。
 このお地蔵さんは、なんでも願いごとをかなえてくれるとか。特に目と腹にはご利益があるといわれています。近郷近在はいうに及ばず、松山や西条、新居浜方面からのお参りもあるそうです。
 
所在地:今治市五十嵐
目次へ戻る


4.あごなしのお地蔵さん
 寺町の大仙寺(曹洞宗)に、あごなしのお地蔵さん(正式にはあごなし地蔵尊といいます。門前の石碑には、無腮[むさい]地蔵尊と書かれています。)という、とてもやさしい顔つきをしたお地蔵さんがあります。このお地蔵さんは、嘉永元年(1848)5月6日、今治藩士の深見利兵衛(深見正廣ともいいます。伯方町の木浦塩田の開祖で、江戸廻船など海運業にも功績があった人です。)が、隠岐(島根県の隠岐諸島)からご勧じょう(霊を移してお祭りすること)したものといわれています。
 このあごなしのお地蔵さんは、平安時代の昔、博学で詩や文章にすぐれた小野篁[たかむら](平安時代の代表的書家、小野道風は孫に当ります。)が、大使藤原常嗣と争い、隠岐へ流された時に崇敬したもので、たいそう由緒あるものとされています。篁が、このへんぴな地で歯痛で長い間苦しんだことがありました。ところが、不思議なことに、歯の痛みを止めてくださいと、お地蔵さんを一心に伏し拝むと、痛みがかき消すようにとれたということです。このことがあって以来、あごなしのお地蔵さんは、歯のほかに、口の中の病にはすべて霊験あらたかといわれ、のどの悪い人のお参りも多いそうです。
 お地蔵さんが、歯痛やのどの悪い者の身代わりになったので、柔らかいものを差し上げるのよいとされ、当地では願掛けの際には、豆腐一丁を上げるというしきたりが残っています。現在の大仙寺のあごなしのお地蔵さんは、太平洋戦争で戦災にあい、新しく建てられたもので、ひところほど参詣者はいなくなりましたが、それでもぼつぼつ願掛けをする人もいるとのことです。
 なお、境内に長尾秀子という人の「国の為身もすこやかに思ふこと のぶべき口を守りたもふよ」という歌碑が建っています。
 
所在地:今治市本町
目次へ戻る


5.親子のお地蔵さん
 『石童丸』は、出家した父を尋ねる哀話の主人公として、歌舞伎、浄瑠璃、謡曲等でひろく知られている人物です。ところで、この石童丸と父親の苅萱道心が、善光寺如来の導きにより刻んだ親子のお地蔵さん(正式には親子地蔵尊といいますが。)が、長野市の往生寺(浄土宗善光寺から西北約1キロほどの所にあります。)にありますが、別宮町の高野山別院(真言宗)の境内にある地蔵堂にもお祭りされています。この地蔵堂にお祭りされている親子のお地蔵さんは、先住の谷本忍雅氏が、今から40数年前に、夢のお告げがあって、長野市の善光寺(大勧進=天台宗・大本願=浄土宗)よりお迎えして祭ったものだといわれています。
 この石童丸の話は、有名な話なので皆さんもよく知っていると思います。多少筋が違うものもありますが、大同小異のようですので次に参考までにあら筋を述べてみましょう。
 平安末期のころの話です。九州の苅萱の領主に加藤左衛門繁氏という人がいました。繁氏には、正妻桂子のほかに、おめかけに千里という人がいました。女性の髪の毛は、大きな憎悪を生むといわれますが、ある日、繁氏が2人の寝姿をそれとなしに見ると髪の毛が蛇になってみにくい争いをしているのです。繁氏は、今さらながら自分の罪の深さに驚くとともに、世の無情を感じてそっと出家し、比叡山の延暦寺に上りました。千里姫はそのあとを慕って旅に出ましたが、播磨国(今の兵庫県)の明石の大山寺に来た時、男の子を産みました。住職の勧めで、父繁氏の幼名をそのままとって石童丸と名付けました。石童丸が14歳になったとき、母と一緒に繁氏の居場所を尋ね旅に出ました。高野山に来た時、女人禁制の地であるので、石童丸は母親とふもとにおいて、山中の寺々を尋ね歩きました。3日目に、ある橋の上で左手に花かごをたずさえ、右手で数珠をくりながらお経を唱えている、ある風変わりな僧侶に出会いました。父親のことを尋ねると、急に顔色が変り、目に涙さえ浮かべます。この僧侶だれあろう、苅萱道心と呼ぶ繁氏自身でした。しかし、繁氏は肉身のきずなを断って仏道修行中の身であるので、父の名乗りをせず、「そなたが尋ねている坊さんは、残念なことに亡くなられた。この墓がそうだ。」とうそを言って、石童丸を帰らせました。石童丸は、やむなくふもとで待つ母親のもとに帰りましたが、すでに母親は旅の疲れが重なって倒れ、もうこの世の人ではなくなっていました。石童丸は、人生の悲哀をしみじみと感じ、仏の道に入ることを決心し、再び苅萱心を尋ね、頼みに頼んで弟子にしてもらいます。やがて道念と命名し、2人はただひたすら仏道の修行に励みました。しかし、苅萱は煩悩を断ち切ることのできぬ身のあさましさを嘆き、ある日、石童丸には何も告げずに高野山をそっと出て、信州(今の長野県)の往生寺に行きます。後日、石童丸は夢のお告げによって、苅萱が自分の父であり、往生寺にいることを知りましたが、父を尋ねた時は、もうこの世の人ではなくなっていました。父の苅萱は、善光寺如来の導きにより、一体のお地蔵さんを刻んでいました。石童丸も父の気持に感動し、まごころをこめてお地蔵さんを作りました。親子2人で作ったお地蔵さんを、人々は「親子地蔵尊」とか「親子のお地蔵さん」と呼んで、てい重にお祭りしています。
 高野山別院の地蔵堂にお祭りされている親子のお地蔵さんも、ご利益があるというので、参詣者も多いようです。地蔵堂に2つの押し絵が掲げられていますが、1つは卒中で倒れ、口がきけぬようになっていた婦人が全快記念に、今1つは、願掛けをし高校に合格した少年が、それぞれ奉納したものです。この婦人の場合は、願掛けをすると、枕もとに親子のお地蔵さんの額がほしいというお告げがあったそうです。
 なお、この地蔵堂には、親子のお地蔵さんのほかに、日切地蔵尊、文殊地蔵尊、慈母観音の掛絵が祭られており、いずれもおかげをこうむった話がたくさん残っています。
 
所在地:今治市別宮町
目次へ戻る


6.円照寺の乳地蔵さん
 高橋の円照寺(臨済宗)に俗に乳地蔵(授乳地蔵ともいいます。)というお地蔵さんが安置されています。このお地蔵さんは、康保年間(964〜967)─一説には天慶年間(1053〜1057)ともいわれます。─の昔、地中から出現したといわれます。この時、五色のまぶしい光を発し、人々を大いに驚かしたということです。この場所は、今の円照寺とは少し離れた高橋の土地に当りますが、里人は、このお地蔵さんを心から尊んで、茅のお堂を建てて、てい重にお祭りしました。そのうち、霊験あらたかなものがあり、熱心な信者が日ごとに増え、ついに今の円照寺の境内に、立派な地蔵堂と建ててお祭りし、今日に至るようになったということです。とりわけ乳の出ない母親が、「乳をお授け下さい。」と言ってお願いをすると、必ずかなえてくれるとか。願ほどきの時には、2つの乳の型をかたどったものを献納する風習が残っており、地蔵堂には乳の模型が、沢山つるされています。
 この地蔵堂の縁側に、小さなお地蔵さんがあり、信者がおしろいや土を塗ってさしあげるという奇習が残っています。これは自然石に刻まれた乳地蔵さんの胴のあたりが割れているので、代わりに小さなお地蔵さんに化粧をして隠し、いたわってあげるのだということです。このまじないをすると、たいそうご利益を受けるとか、とりわけ下の病によく効くそうです。
 8月23日の縁日には、境内で盆踊りが行われ、店も出て大へんにぎわいます。
 
所在地:今治市高橋
目次へ戻る


7.真光寺の延命地蔵さん
 東村の真光寺(真言宗)に6メートル余に及ぶ立派な延命地蔵さん(正式には延命地蔵尊といいます。)があります。
 この真光寺は、第59代宇多天皇の勅願によって創建されたもので、十二坊七堂伽藍の立派な由緒のある真言宗のお寺でした。それが兵火にかかったり、風水害に見舞われるなどして、いつの間にか往持の面影がなくなってしまいました。特に明治6年(1873)8月の頓田川堤防の決壊に対する被害ははなはだしく、本堂と大伽藍が流出してしまいました。そのために、時の住職佐伯実雄和尚は、お寺の復興のために格別の努力をはらいました。そのあとを継いだ菅宝厳和尚は、大正12年(1923)に寺の興隆と善男善女の延命利生(長寿とご利益を与えること)を祈願して、伯方島の石工さんに依頼し、延命地蔵さんを建立しました。このお地蔵さんは、けさと衣とを着用した僧侶風の姿をしており、左手に宝珠、右手に錫杖(頭部にかんがあり、それに小さな鉄の輪をつけたつえ。お坊さんが持ち歩く時に使う。)を持った立像ですが、その大きさもさることながら、柔和なお顔は、まことによくできています。錫杖は、現在のものは鉄製になっていますが、第二次世界大戦の際に供出されるまではしんちゅうだったそうです。─お地蔵さんは、この錫杖をついてめい界(死後に行くといわれる世界)を歩き、不幸な亡者を仏道に導くといわれています。─今も延命地蔵さんの恵みにあずかろうとする人たちの信仰を集めています。
 
所在地:今治市東村
目次へ戻る


8.比留女地蔵さん
 菊間町高田字ひるめの田んぼの中に小さなお堂があり、そこに、比留女地蔵さんという風変わりなお地蔵さんが祭られています。「比留女」は「姫地蔵」と言うのがなまったもので、身分の高い女性を尊んだ呼び名であろうといわれています。
 戦国時代の昔、菊間町松尾の黒岩城主、渡部内蔵進という人の姉に、タカ姫というとても美しくて気品のある人がいました。このタカ姫は、腰気をわずらい長い間悩みました。それで般若心経を書写して、高田字ひるめに埋め、病気が一日も早くなおるように熱心にお祈りしました。おかげでタカ姫の病気はすっかりよくなりました。また、一説には、天正年間─1573〜1591─(正確に天正13年─1585─という人もいます。)の昔、高仙山城主得居末高の姉が、戦乱をのがれる途中、この地で亡くなったといわれています。このようなことがあって以来、人々は、この地に比留女地蔵さんとしてお祭りしました。このお地蔵さんは、下の病に霊験あらたかといわれ、性病、腰気、夜尿症のなおった人など、おかげをこうむった人も多いといわれています。なかには、脳病のなおった人もいて、万病に効くという声もあり、近郷近在はいうまでもなく、松山等の遠方からも参詣者があるとのことです。
 比留女地蔵さんには、奉納品として女性のお腰(腰巻)や男性の男根を型どった焼き物や木製品などがお供えしてあります。また、8月21日は縁日になっており、餅まきや踊りでにぎわいます。なお、タカ姫の位はいは「献珠院殿円覚妙善禅尼」と書かれており、高田の献珠院(真言宗)にお祭りされています。
 
所在地:今治市菊間町高田
目次へ戻る


9.七地蔵さんのいわれ
  今治市町谷にある無住の庵の近くの木々の茂みの中に七つの小さなお地蔵さんが安置されていて、俗に、七地蔵さんと呼ばれています。元来、お地蔵さんは六地蔵と言って六体あるのが普通ですが、ここでは一体だけお地蔵さんの上部が斜めに欠けています。これは、古老のいい伝えによれば、もともと六地蔵であったのを、昔、ある悪辣残忍な侍が試し斬りしたため、後から一体だけ新しく作ったからだと言われています。
 
所在地:今治市町谷
目次へ戻る


10.間のお地蔵さん
 東村に、俗に「間のお地蔵さん」と言われるお地蔵さんがあります。眼や風邪に御利益があると言われ、近郷の人は勿論のこと、遠方からもお参りに来る人がいます。(こう言ったことから、「眼のお地蔵さん」とか、「風邪のお地蔵さん」と言う人もいます。)昔は、このお地蔵さんの前を通る時には、履物をぬいで素足で通る人が多かったと言うことですが、今でも時たま、素足で通る人がいるそうです。お地蔵さんと言われているものの、供養塔や墓の形態をとっており、誰か相当高貴な方をお祭りしたお墓ではないかを思われます。一説には、大舘氏明の首を葬った首塚ではなかろうかと言う説もあります。氏明の位牌は世田山(東予市と今治市の境にある山、339メートル)の麓の旃壇寺(真言宗)に、墓は世田山上にあります。
 大館氏明は、新田義貞、脇屋義助の甥に当たり、延元3年(1338)に伊予の守護となり、世田山(周桑郡三芳町)の城主をつとめましたが、興国3年(1342)9月に、細川勢との戦いで挺身奮闘し、部下17名とともに自刃しました。氏明の最後については、『太平記』(軍記物語、40巻、作者は小島法師といわれますが、正確なことはわかりません。応安年間−1368〜1374−のころの作と言われています。)に「大館左馬之助討死事附篠塚勇力事」に次のように出ています。「力尽き食乏しく、防ぐべき様も無りければ、9月3日の晩、大館左馬主従十七騎、一の木戸口へ打ち出で堀に著きたる敵五百餘人を遥かなる麓へ追下し、一度に腹を切って、枕を竝べてぞ伏したりける。」(一の木戸口へ打って出て堀にとりついた五百余人の敵を遥か麓へ追い落してから一せいに腹を切って枕を並べて最期をとげた。<左馬助は氏明のことである。>)
 
所在地:今治市東村
目次へ戻る


11.火よけのお地蔵さん(古寺のお地蔵さん)
  大西町新町の踏切りの近くの金光教大井教会の東隣の広場に「火よけのお地蔵さん」とか「古寺のお地蔵さん」と呼ばれる地蔵堂があります。江戸時代には、この地蔵堂のあたりが処刑場になっていたそうで、延喜村(現在の今治市延喜)の農民のために尽くした八木忠左衛門父子もここで処刑になったといわれています。昔は、地蔵堂のあたりから人骨がよく出てきたそうで、後にここにお寺が建てられていたのではという説もあります。火よけのお地蔵さんと言われているようにこの地蔵さんのお陰で、昔からこの新町には火事がほとんどないそうです。あってもあまり大火にはならなかったそうです。お地蔵さんはお堂の中にあって立派なよだれかけをかけています。このお地蔵さんは、火よけのほかに悪病厄除けとして信仰を集めています。特に子どもの願いごとはよくかなえてくれるそうです。願いごとをかなえてくれた時には、白いよだれかけに○年(エト)○歳と書いたよだれかけをお堂の入り口に奉納する習わしがあります。白いよだれかけは、お陰をいただいた人が、願ほどきのお礼に奉納したものだそうです。毎月23日を御命日としてお膳を供えてお祭りし、8月23日を御縁日として盛大に供養していますが、古老の話によると、太平洋戦争前までは、新町の旧大庄屋の井出家から下の新町では、各家ごとにわらやしゅろでこしらえた人形の出し物が出されたり、ちょうちんが飾られたりして、各戸をあげてお祭りをしたそうです。最近でも子供も出て盆踊りをしますが、以前は、盆踊りの規模も大きく店もたくさん出てかなり盛大ににぎわったということです。
 
所在地:今治市大西町新町
目次へ戻る


12.五十嵐の虚空蔵菩薩さん
 昔、五十嵐にお金持ちが住んでおりました。ところがどうしたことか、この家には生まれてくる子供が身体障害者であったり、若死するなど不幸が続きました。そこで、日ごろ熱心に仏さんに「罪けがれをのぞいてください。」と祈願をしておりました。ある晩のことです。主人の枕もとに夢の中で仏さんが現れ「明日の朝早く喜田村(鳥生という説もあります。)の浜辺で待っているから、馬を引いて来なさい。」とお告げがありました。しばらくすると海上のある一点から後光がさしてきます。きっとあの夢に現れた仏さんがおいでになるに違いないと、小舟を出して沖へ出ました。すると、やはり立派な仏像が波に洗われながら、見えかくれつしています。主人はうやうやしく伏し拝んだあと、その仏像を小舟に乗せました。家に持ち帰った主人は、五十嵐の松尾に小さいお堂を建てて、てい重にお祭りしました。その後、主人夫婦に玉のようなかわいい赤子が次々に生まれました。そしてみんな健やかに成長しました。これこそ仏さんのおかげだと、主人夫婦はいうに及ばず、村人たちも厚く信仰しました。この仏さんは、一般に現世来世の利益を授ける虚空菩薩さんの名で人々に親しまれています。特に妊婦が祈願すると、身体障害者は絶対に生まれないといわれ、遠近の人たちの尊信を集め、参詣者も多いようです。なお、正月と盆には、子供が中心になって、てい重にお祭りしています。このお地蔵さんは、長い間海中にあったので、貝がらが付いていたそうですが、現在はきれいに洗い落とされています。
 
所在地:今治市五十嵐
目次へ戻る


13.四村のさえの神さん
 四村(旧清水村)の道路わきの田んぼの中に、五つの小さな石造が建っています。この石造については、いろいろ言われていますが、さえの神さん(さいの神とも言い、塞の神と書くが幸の神、才の神などと当てることもある。)ではないかと言う説が最も強いようです。このさえの神は、防塞の意味と同じで、外からやってくるわざわいを、ここで防禦するための神様だと言われています。新村出編の「広辞林」には、「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を黄泉の国に訪ね、逃げ戻った時、追い掛けてきた黄泉醜女(よもつしこめ)を遮り止めるために、投げた杖から成り出た神」とあり、また「邪霊の侵入を防止する神、行人を守る道路の神……」とあります。またこの石造は、一説には十月に、このあたりの神様が全部出雲(今の島根県東部)へ行ってしまう日があるので、その留守を守る神様で、たごり(咳)の神様だとも言われています。丁度石造が五つあるので、この地方の義人と言われた近藤八右衛門等、五人主の墓ではないかと言う人も多いようですが。五人主の墓は浄寂寺境内にあり、また、この石造の祭主もはっきりしているので、五人主とは関係がないと言えます。
 
所在地:今治市四村
目次へ戻る


14.平家にゆかりのある石仏さん
 中日吉町の渡部脩氏方に、とても立派で美しい石造りの座仏像である釈迦像、知恵の文殊菩薩、普賢菩薩等十体が保存されています。この石仏さんは、昭和のはじめ予讃線が今治駅に開通したころ、熊本市で骨とうの趣味を持つ脩氏の御祖父の亀吉氏が熊本県の阿蘇郡一宮町から取り寄せ、御尊父の喜八氏に送ったもので、次のような話が伝わっています。
 平安末期から鎌倉末期にかけて、源平合戦による平家一族の戦没者の霊を供養するため、平家の落人が、一宮町の山地に石仏を彫って安置し、観音堂をこしらえて供養したということが、当地の竜泉寺(曹洞宗)の記録に残っています。また、別に熊本地方では、没落した平家の菩提を弔うため、有名な浄瑠璃の名作「義経千本桜」に出てくる石屋の彌陀六が、五百羅漢や十六羅漢を石に刻んだという話が残っており、これらの石像の一部ではなかろうかという伝説もあります。熊本地方には、このような石仏さんが、ぼつぼつ残っており、なかでも、熊本市松尾町岩戸の雲巌寺(曹洞宗)の五百羅漢は有名ですが、この脩氏宅の石仏さんとは無関係のようです。この石仏さんは、明治のはじめころは、一宮町にはかなり残っていたようですが、その後、分散したり、破損したりして、現在は当地には一体も保存されていません。石仏さんは、いずれも阿蘇の火山岩で非常に精巧に作られており、しかも完全な形で残っているだけに、珍しい貴重なものとされています。こんなことで、見物客も多いということです。
 ところで、この石仏さんはいろいろ霊験があり、粗末な扱いをすると、たいへんなばちが当たるといわれます。
 ある日のことです。家の増築をしていて、左官さんがある石仏さんの上を、あやまってまたいだところ、左官さんと家族の人が全員病気にかかって苦しみました。それで、左官さんと家族の人みんなで、石仏さんをていねいに洗い清めたところ、やっと病気がなおったということです。また、玄関前に天上天下唯我独尊の格好をした釈迦像が安置されていますが、ある時、脩氏がこの像を動かしていて、首のあたりを痛めたことがありました。あわてて左官さんを呼んで、応急処置をしましたが、後日、案の定、脩氏が自転車に乗っていて事故(さいわい軽傷で済んだそうです。)に会いました。こんなわけで、譲ってくれるようにせがむ人もぼつぼついるそうですが、一体でも欠けるとばちが当たるというので、脩氏も手放さなく、てい重にお祭りしているということです。
 
所在地:今治市中日吉町
目次へ戻る


15.乗禅寺の観音さん
 およそ、今から千五十年の昔、延喜の小谷という所に喜作という人がいました。父親は医者で、里人から非常に重宝がられていました。ある日、喜作が、大井(現在の大西町で旧大井村に当たります。)で病人を診察しての帰りに、浜辺で、龍女の作といわれる一寸八分(約5・5センチ)の観音さんを授かりました。喜作は、この観音さんを持ち帰って、毎日拝んでいましたが、後に決するところがあって、お堂を建ててお祭りするとともに、自らも出家の身をなり、名も良玄と改めました。(後に頓魚とも呼ばれるようになります。)この観音さんの霊験あらたかであることが、国中に知られるようになり、国司なども、しばしば武運長久等の祈願を依頼したということです。
 時代は下って、宥然上人(ゆうねんしょうにん)というお坊さんの時代に観音さんの霊験が、時の朝廷である第六十五第醍醐天皇にも申し上げられました。時に延喜年間(901〜922)であったので、その年号にちなんで、この観音さんを「延喜観音」と呼び、小谷の名も延喜と改めさせられました。また、七堂伽藍を建立せられ、お寺の名も乗禅寺(真言宗)と名付けられ、仏師の安阿彌に命じて、手が六本ある木仏の座像の如意輪観世音菩薩を作らせました。安阿彌は、馬越の鯨山で飲食行動を慎み、水あびをして心身のけがれを除き、この仏像を作りましたが、この時、これまであった一寸八分の観音さんを、その腹の中を納められたということです。(別に六人の僧が作ったのだという説もあります。)この観音さんは、その後、たびたび兵火にあったにもかかわらず、その難を免れ、今も乗禅寺の御本尊として残っています。高さ三尺七寸(約112センチ)の仏像で十分重要文化財になる価値がありますが、宝暦五年(1755)の兵火で本堂が焼失した時に、運搬していて手を一本折り、修理した箇所があるのが惜しまれています。
 この観音さんの霊験については、こんな話も残っています。第95代後醍醐天皇の御代、頓上上人の時に、ご病気でなやまされていた天皇の枕のもとに、小谷の観音さんが現れて、この観音さんをご祈とうすれば、病気は立ちどころになるであろうというお告げがありました。このことによって寺領に綸旨(天皇のお言葉)があり、今もその書が保存されています。
 現在、境内には、藤原後期から鎌倉後期のものと思われる醍醐天皇、後醍醐天皇の宝篋印塔(五基)をはじめ、五輪塔(二基)、多宝塔(一基)が残っています。
 なお、この観音さんについては、喜作が大井の浜で授かったという伝説のほかに、昔、花木長者(宅間の長者ともいわれました。)が大井の浜で見つけ、持ち帰って延喜の小谷に祭ったのが始まりであるとか、菅原道真が讃岐(今の香川)の国司であった時、海上で風波に遭遇し、天皇から賜った一寸八分の観音さんを、この地に安置したのが始まりであるという説もあり、いろいろにいわれています。
 
所在地:今治市延喜
目次へ戻る


16.観音さんの助け
 天智天皇の昔、百済の白村江(朝鮮半島西南部錦江の古い地名)の戦いで日本の水軍は、唐(今の中華人民共和国)、新羅(朝鮮半島の古い国名)の連合軍に大敗しました。その時、運悪くこの地方の豪族であった越智直等八名の者が、唐の軍のとりこになって、ある孤島に強制収容されました。監督の目がきびしいので逃走することも難しく、八人の者は、ただ父母妻子のことを、いつも頭に描いて憂うつな毎日を送っていました。ところが、ある日、思いがけなくも捕虜収容所で一体の観音さんを発見しました。(一説には、越智直が常にはだ身離さず信仰していたともいわれています。)八人の者は、観音さんが一切衆生(仏教で、この世に生存するすべての生きものという意味です。)の願いをかなえてくださるものと信じ、どうか本国に帰らせてくださいと、来る日も来る日も一心にお願いをしました。ある時、八人の者が集まって、どうせこの地で死ぬのなら、一か八か脱走を試みてはどうだろうか、観音さんの加護があるものなら救われるに違いない。皆で協力して大木を切って、舟にくりぬいて、監視のすきを見はからってひそかに逃げ帰ろうではないか、ということに話がまとまりました。またたく間に舟は出来ました。まず、舟に観音さんを安置して乗り組みました。舟はちょうど追い風に恵まれ、矢を射たように本国をめがけてまっすぐ突っ走り、筑紫の国(今の九州、狭義では今の福岡県)に到着し、それぞれなつかしい故郷の地を踏むことが出来、父母妻子とも喜びの対面をしました。その後、このことが都でも評判となり、朝廷からお呼びを受け、越智直等がその時のことをこまごまと話しました。興味深げに耳を傾けられていた朝廷は、非常に感激されて希望があれば何なりとかなえさせてやろうと申されました。そこで、越智直は、越智郡という新しい郡を設けてその地の大領(郡の長官)となり、この地にお堂を建立して観音さんを安置しました。その後も、越智直の子孫に当たる河野氏をはじめ、代々、てい重にお祭りしたということです。この伝説は「今昔物語、巻十六、本朝付仏法伊予国の越智の直観音の助けによりて震旦より返り来るものがたり、」にもかなり詳しく述べられています。ところで、この観音さんのその後の所在ですが、作礼山の仙遊寺(真言宗)にあったとか、中寺の石中寺(石土宗、現在、寺はありません。)の塔頭の観音堂に納められていたとか、あるいは、藏敷にある東禅寺の本堂に安置されている観音さんがそれであるとか、いろいろにいわれています。また、作礼山の頂上にある五輪塔は、越智直が天智天皇のご恩に感謝して、後に建立したものではなかとうかといわれています。ついでに、越智直についてですが、彼は後述の「38鉄人退治と越智益躬の子孫で、本名を越智守興といい、新谷の三島神社の境内に彼の墓と称するものがあります。
 
所在地:今治市玉川町別所
目次へ戻る


17.龍登川と観音さん
 昔、龍女(籠宮にいるといわれる仙女)が、海から龍登川(河南地区を流れている川で龍燈川とも書きます。)を伝って玉川町の作礼山に上がり、それはそれは立派な観音さんを作りました。龍女は、一刀刻むごとに三度礼拝し、何日も何日もかけてこの観音さんを作りあげました。観音さんが出来上がると、龍女は再び龍登川を伝ってもとの海に帰りました。ところで、ある古老は、龍登川の近くにある鳥生の衣干という地名は、龍女が川を上がる際、川尻の衣干峠でしばらくの間休み、衣を干したからだといっています。また、拝志という地名は、龍女が観音さんを刻んで川を下る途中、作礼山の方をふり返って、観音さんを何度もうやうやしく拝したからだという人もいます。その後、旧の7月9日には、毎年決まったように龍燈が龍登川を伝って作礼山へ上がり、作礼山の仙遊寺(真言宗、四国八十八か所十八番札所)にある桜の木にかかったそうです。この桜の木は今はありませんが、龍燈桜と呼ばれ、明治時代ころまで見ることが出来たということです。その跡へ昭和二十九年(1954)に、高野山の金山大層正によって立派な桜の木が植樹され、かなり大きく成長していましたが、惜しいことに虫にでも食われたのか、今はそれも枯木になってしまっています。
 龍登川という川の名の起こりは、この龍女や龍燈の伝説と関係が深いようです。なお、龍女によって作られたといわれる仙遊寺の観音さんは、龍女一刀三礼の作「千手観音」(詳しくは「千手千眼観世音菩薩」と言います。)と言っております。この観音さんは、その後何度か火災にあって焼失してしまい、現存しているものはどうも新しく作られたもののようです。昭和二十二年(1947)四月に小鴨部山の失火がもとで、お寺は類焼の難にあいましたが、幸い近くの新谷や別所の方々によって、御本尊は、ご避難をえて焼失を免れました。
 
所在地:今治市玉川町別所
目次へ戻る


18.高橋の馬頭観音さん
 高橋の権現山の伊予熊野神社境内の入口に、風変わりなお地蔵さんがあります。馬の上に仏さんが乗った石像で、馬頭観音さんと呼んでいます。昔から馬は、人間にとってつながりの深い動物でした。特にずっと昔は、馬の足の速いことが尊重され、速さの象徴となっていたようで、救いを求める人々の願いを聞いて、敏速に助けに来るといった救済力を持った仏さんとされていたようでした。それが後に、馬の守り神として祭られるようになったのです。昔は、交通運送の手段として馬が大きな役割を果たしていましたので、農夫や馬方などが、馬頭観音を祭って無事を祈ったようです。
 昔は、高橋部落の人々は、朝まだ開けきらぬ暗いうちに、鈴をつけた馬にほいほいとかけ声をかけながら、隣近所の人々と競うようにして、御厩(玉川町)のあたりまで、草刈りに出かけるのが日課になっていました。ところがこの熊野神社のあたりは、坂道の上がまがり角になっていたので、足を踏みはずしてけがをしたり、死んだりする馬が続出しました。そこで愛馬の供養のため、また、他の馬の無事を祈るため、馬頭観音さんを作って、てい重にお祭りすることにしました。諸病、特に神経痛やリュウマチに霊験あらたかといわれ、参詣者も多いようです。
 なお、この馬頭観音は、小泉本郷の泰山寺の近くにもあります。また、馬頭観音とは関係ありませんが、馬に関するものとしては、神宮井戸の庄屋山に庄屋の愛馬の不慮の死を供養するため「大乗妙典一字一石」と書かれた石碑が建てられています。
 
所在地:今治市高橋
目次へ戻る


19.お灸をすえる凪見観音さん
 桜井の古国分山(約30メートル、寺山ともいう)には、今治藩主久松家の初代定房、三代定陳、四代定基の三人の立派なお墓がありますが、このお墓の後に石造の等身大の観音さんがあります。この観音さんは凪見(なぎみとかなだみと言います。)観音と呼ばれ、上半身の病に霊験あらたかと言われ、お参りする人も多いようです。おもしろいことに、この観音さんのうなじ(頭の後方の下部、えりくびの所)に穴があいていて、そこにお灸をすえて願いごとをするとかなえられるそうです。−別に、観音さんにお願いして願いごとがかなえられるとお礼に灸をすえるとよいという人もいます。−
 昔、今治のあるお殿様にとても美しく気だての優しいお姫さんがいました。このお姫さんは大変な読書家で賢い方でありました。あまりよく本を読むので、肩こりで悩み、それがもとで亡くなったということです。それで、このお姫さんが亡くなる時に、お側の者に「私のように肩こりで悩む人は気の毒である。上半身から上の病で苦しむ人は、私の平素信仰している観音さんのちりけ(このあたりではちりげと言っています。)に灸をすえて一心に拝むと荒れていた海がなぐようにお陰を授かるであろう。」と言い伝えたそうです。このお姫様の海がなぐようにお陰を受けるということから、いつだれというなしに凪見観音と呼ばれるようになりました。また、いつも海上が凪いでいるように、船の安全や大漁を祈願するため参詣する人も多いようです。平素からお陰にあずかろうという人のお参りが多いようですが、とりわけ毎月十七日は観音さんの日として参詣人も多いとか。特に八月十七日には観音さんの前で桜井の浜や古国分の有志の方々が集まって御詠歌を唱えたり歓談したりします。また、一部の人の中には盆おどりをしてにぎわうそうです。昭和三年三月奉納の石に彫られた手洗が今も残っており古くから信仰されていることがわかります。なお、観音さんの向かって左側にお地蔵さんがありますが、このお地蔵さんは、観音さんとは逆に下の病に霊験あらたかなものがあると言われています。今日も観音さんにお地蔵さんが仲よく並んで、優しいまなざしで瀬戸の海の方を眺めています。また、観音さんの右側の山手に小さなかわいい石仏が建っています。
 
所在地:今治市古国分
目次へ戻る

20.別宮の阿奈波神社の由来
 別宮の大山祗神社の境内に「阿奈波さん」の名で親しまれているお宮があります。現在の阿奈波神社には、昭和38年(1963)3月17日に、大三島の阿奈波神社より観請したものですが、古地図(四国八十八か所五十五番札所の南光坊(真言宗)に所蔵されていましたが、惜しくも戦災で焼失したということです。)等からずっと昔は、この境内に祭られていたのではないかということです。
 御祭神磐長姫神(大山積大神のご長女)について、次のような悲しい物語が残っています。
 神代の昔のことです。天孫瓊瓊杵尊(天照大神のお孫)が天照大神の命によって、この国土を統治するため、高天が原から日向(今の宮崎県)の高千穂峰に降臨(天から地上に下られること)されました。間もなく大山積大神の娘木花開耶姫(木花佐久夜姫とも書きます。)を見そめることになり、結婚を申し込みました。大山積大神は、たいそう喜び、「よかったら姉の磐長姫命も一緒にお願いします。」と勧めました。ところが、妹の木花耶姫がまれに見る美女であったのにくらべ、醜女であった磐長姫は、断られてしまいました。磐長姫は「私だったら岩のような丈夫な子を産むことが出来るが、妹の子はすぐ花のように散ってしまおう。」と嘆かれたということです。その後、磐長姫が、一生独身で過ごされましたが、いわれたとおり長寿をまっとうされました。
 結婚を断られた磐長姫は、生涯を醜女や性病など下の病に悩む人のために、尽くしたと伝えられています。福徳円満な神様でもあったので、人々から尊ばれており、「福の神様」「長生きの神様」「下の病をなおす神様」として善男善女の信仰の的となり、参拝客も多いようです。
 
所在地:今治市別宮町
目次へ戻る



21.八幡渦と大浜八幡神社の由来
 馬島と中渡島の間を流れる中水道南の中央入口に『八幡渦』と言う来島海峡最大のうずがあります。大潮の時には、直径十メートル余にも及び大うずになるそうで、航海の難所といわれている所です。この八幡渦には、次のようないわれがあります。
 その昔、伊予の水軍村上氏の盛んな時代のことです。大浜八幡神社(大浜中部)の大祭に、毎年みこしが海を渡って、島々の城に渡御しておりました。ある年、みこし三体が海を渡る途中、一体がここの渦にまきこまれて沈んでしまいました。このことがあって以来、この箇所を神社の名をとって『八幡渦』と呼ぶようになったそうです。また、このことがあってから間もなく、八幡渦から火が飛び出し、神領の吉海町の椋名に落ちるという珍事が起こりました。そこで里人は、八幡渦の海水をくんで神様をお迎えして、渦浦八幡神社を建てて大浜八幡神社の分社としたということです。この神社のあたりを渦浦と呼ぶのもこのような事故によるといわれます。
 大浜八幡神社は、越智氏族の祖神である小千国造(おちのくにのみやつこ)乎致命(おちのみこと)のほか、八柱の神さんをお祭りした由緒ある神社です。大浜八幡神社という社名は乎致命から九代目の子孫に当たる乎致高縄が大浜(御浜、王浜とも書いていたことがありました。)に大浜大神を創建し、更に貞観元年(859)−延長二年(924)という説もあります。−国司河野大夫興村等が、宇佐八幡宮より八幡宮を勧請したことによるといわれています。この神社は、江戸時代には今治藩主が、今治越智郡の総氏神としてあがめ尊ばれ、念に一度は参詣されました。また、毎年大祭にはみこしが登城して、今治の町々を回ってにぎわいを呈したということです。
 
所在地:今治市大浜町
目次へ戻る


22.柿原霊神の由来
 海禅寺(臨済宗)境内の小高い所に、柿原霊神という小さな社があります。この柿原霊神は通称柿原誠楽(本名庄兵衛)といい、元は今治藩主でしたが、後に黒柱教の布教師として活躍した人です。この誠楽について、次のような興味のある話が伝わっています。
 明治十七年(1884)十一月十五日の出来事です。広島県竹原市の忠海町の黒住教会所長に渡部好太郎という人がいました。渡部所長が自宅で本を読んでいたところ、急に眠気がさしてくるのです。ついうとうととすると、目の前に誠楽が現れ、「下の病は、まことにめんどうなものである。ところが、今回黒住教祖様からありがたいおかげを授かることになった。今後腰の病で苦しむ者は『柿原霊神』と唱えて祈願してほしい。ただちにおかげを受けるように、教祖様に取りつぐことにいたす。」と言ってぱっと姿を消しました。あとでわかったことですが、この時、誠楽は、この世を去っていたのでした。渡部所長は、その霊感に驚くとともに、このことを信者はもとより多くの人々に広めました。
 その後、誠楽がいったように、柿原霊神は下の病、特に痔と腰気に霊験あらたかなものがありました。そのため一時は近郷近在はいうにおよばず、京阪神から九州方面の人まで参詣に来たそうです。今でもおかげにあずかろうとして、参詣する人がかなりいるとのことです。四月八日(以前は四月三日でした。)は、春季例大祭でにぎわいます。
 
所在地:今治市山片町
目次へ戻る


23.青木社の由来
 今治藩、初代の大名、久松定房の草履とりをつとめていた某が、ある年、村内水論の主謀者と見られ、処刑されてしまいました。後に讒言(相手をおとしいれるためにありもしない事を作りあげ、目上の人に告げること)した者が顕れ、村民は彼の死を憐み、彼の屋敷跡に小さな祠を建てて祭りました。その後、青木社(祭神=水波女尊、国挟槌尊、豊受姫等)と一緒にお祭りしましたが、この青木社は、明治時代に今の姫坂神社に合祀されるまで青木通に祭られていました。今、この青木社は姫坂神社の入口のところに社殿がありますが、咳の神様として崇められ参詣者も多いそうです。また、従前は、願をかける人や、願ほどきに来た人が奉納した草履が沢山入口の柱に吊るされていました。今でも、ぼつぼつお礼参りに来た人が草履を奉納しています。これは、先の草履とりと縁が深いのではないかと思われます。なお、この青木社は、江戸時代に雨乞いの祈願所とせられ、その霊験あらたかであったと言う言い伝えも残っています。
 
所在地:今治市宮下町
目次へ戻る


24.馬神社の由来
 大三島の大山祗神社の末社に「馬神社」と言う馬をお祭りしたかわったお社−境内の入り口の社務所の近くの、神馬舎と並んだ小さなお社−があり、面白いいわれと神事が残っています。
 気の短い須佐之男命が、姉君の天照大神が衣を織られるために、斉服殿にいられるのを見て天斑馬の皮を坂剥に剥ぎ甍をはいで放りこまれた。そのために、天照大神が杼で傷を負わせられることになり、遂に天石窟に入らせられ、大騒ぎしたと言う神話が古事記や日本書紀の中に出ています。この際の、須佐之男命の生剥逆剥になった天斑馬の霊をお祭りしているのが、このお社だと言われています。この大山祗神社の末社としてお祭りするようになったのは、御祭神になっている大山積大神の娘の木花開耶姫命を、天照大神の孫に当たる瓊々杵尊(ににぎみのみこと)が降臨する時に、后妃として差し上げた関係上、天照大神のお気持ちを柔らげ慰めるためではないかと言われています。
 この馬神様に因んで、この大山祗神社では、平安時代から江戸時代の終わり(文政時代−1818〜1830−)の頃まで流鏑馬が行われていました。この流鏑馬は、十数名の物が、平安時代に公家が着用した狩衣姿で弓矢をたずさえ、馬にまたがり、境内を馳せながら、馬上から獣の模型の的を次から次へと射ると言った行事で、旧正月の十日頃に行われていましたが、自然の災害にあい、いつの間にか止んでしまったそうです。最近までこの流鏑馬のかわりに弓祈祷の行事が行われていましたが、若者の不足で現在は中止されています。大山祗神社の南方約二百米くらいのところに、「馬見」(大三島町宮浦下条)と言うところがありますが、昔は神馬その他の用馬を飼っていた土地だと言われています。また、今でも春季大祭(旧暦の8月22日)の神輿渡御の供奉行事に、神馬が宮司神職を乗せて奉仕しており、平安時代さながらの風俗でもってお祭りが執り行われています。なお、大山祗神社に伝えられているものとして、「馬の角」だと言われているものがあります。長さ二寸五分くらいのもので、現在国宝館に陳列されていますが、室町時代に神馬として飼育されていた馬に生えたものだと言われています。
 
所在地:今治市大三島町宮浦
目次へ戻る


25.権現山の稲荷神社の由来
 高橋(旧日高村の大字)の権現山に、稲荷神社があります。この稲荷神社は、慶長の昔(1596〜1615)、今治藩主藤堂高虎が、有名な京都の伏見の稲荷神社を勧請せられたのがその始まりです。最初、高虎は今治城を築く際、十数間四方もある、豪壮華麗な社殿を建てるため、その御神霊を城内に祭られましたが、ほどなく、国替えになりました。その後、続いて今治藩主初代久松定房が、寛文10年(1670)伊予熊野神社を再興せられた時、稲荷神社の御神霊をこの地に遷されました。これには、こんなわけがあると伝えられています。定房が病気で弱っていた時、ある夜、夢に白狐があらわれ、薬を与えてくれ、その薬を飲むと、不思議や、たちどころに病気がなおったとか、この加護により、この地に、稲荷神社を遷されたと言うことです。このようなことがあってから、代々の藩主も、この稲荷神社について、信仰が厚く、毎年一、二度は、自ら御参拝になり、幣帛(神にささげるぬさ)を奉納したり、二月の初午祭と、十一月の例祭ごとに、近臣の者をつかわして、代拝させることが多かったようです。権現山の祭りは盛大で、以前は、頭に白狐の頭巾をつけた奴が出ていましたが、これは先に述べた定房が、夢に見たと言う白狐に由来すると伝えられています。それから、高虎が計画していた稲荷神社の社殿の百分の一の模型が、現在、この殿内に奉安されていますが、これは定房が稲荷神社をこの地に遷される時、一緒に遷されたものだそうです。なお、お稲荷さんについてですが、この信仰は、本来は宇迦之御魂神をつつしんでお祭する信仰で、一切の食物を司る五穀の神の名のことを稲荷と言ったのですが、後に、お稲荷さんが狐の神と同一視されたり、狐がお稲荷さんの使い姫のように言われるなど、狐と不可分のようになりました。そして、いつの間にか、今日も多くの人々が考えているように、災いを除き、服を受ける開運の神とするむきが多くなってきたのです。したがって、ここで述べた権現山の稲荷神社についても、歴史的に云々すれば、おかしなことになるかもわかりません。あくまで、伝説として味わっていただきたいと思います。
 
所在地:今治市高橋
目次へ戻る


26.神像と遊ぶ牛飼いの子供
 延喜の佐古に、氏神さんとして素鵞神社があります。延喜の人たちは、俗に佐古神社と呼んでいます。この神社の御祭神と子供について次のようなおもしろい話が残っています。
 昔、牛飼いの子供が、御祭神の須佐之男命(素戔鳴尊とも書きます。)の神像を取り出し、近くの池につけて遊んでいました。ある古老がこれを見て、「なんてばちのあたることをする子だ。やめなさい。」とやかましく注意したところ、古老は次の日からすごく熱を出し、床についてしまいました。余り熱が長く続くので、拝んでもらったところ、神さんが子供と楽しく遊んでいるのに反対したのがいけないということがわかりました。神さんは、大体に罪けがれのない純真な子供が大好きなようでう。わけても須佐之男命は、子供を大変かわいがる神さんだったようです。神像を水につけるという行事は、全国的にもぼつぼつあるようで、長崎でも海につけて遊ぶ行事が残っているそうです。
 なお、素鵞神社は、十月十日が祭日で、この日は、境内の前の広場で子供相撲が奉納されています。
 
所在地:今治市延喜
目次へ戻る


27.龍神社の海中の鳥居
 波止浜の宮ノ下の龍神社の鳥居が、中堀川のすその海中に静かに立って、時代の移り変わりを見守っています。龍神社は、天和三年(1683)に波止浜の塩田が首尾よく築造された時、郡奉行兼代官の園田藤大夫成連が、日ごろその祖として信仰していた近江国(今の滋賀県)勢田の御祭神八大龍王を観請鎮座したものだといわれます。海中の鳥居は、少し時代が下がった正徳五年(1715)に建立されたもので、龍神社の参拝者は、この下をくぐると霊験の加護を受けたそうです。現在の龍神社の地がたの大鳥居は、昭和十五年(1940)に建立奉納されたもので、以前はこのあたりは、深い入り海でした。今は海中の鳥居は、地堀川の岸辺にあってちょっと見えにくいですが、昔は干潟で四方から見通しがきき、その眺めはすばらしかったといわれています。また、その当時は、ぼらやちぬなどの大きな魚がこのあたりを遊泳していて、漁をする人を随分楽しませました。−最近は、水門や貯水場が出来たので、ひところほど大きな魚は見えなくなったといわれます。−なお、毎月一日と十五日には、決まって大さめ(ふか)がこの鳥居の下をくぐってやってきたそうです。人々は、大さめが竜神の使いとしてやって来るのだといって、邪魔をしないようにこの両日は漁をやめていました。この日に漁をすると、網が破られ、不漁だったといわれています。
 
所在地:今治市波止浜町
目次へ戻る


28.泰山寺の由来
 小泉にある四国八十八か所五十六番札所の泰山寺(真言宗)は、弘仁六年(815)に弘法大師により開創されたといわれています。弘法大師がたまたま四国巡拝教化のためにこの地に来られた時、ちょうど梅雨で大雨のため、蒼社川がはん濫して田畑や家屋が流失し、人命を失う者も多かったということです。里人は、蒼社川を人取川といって、怨霊がいると信じていました。弘法大師は、みんなが力をあわせれば水害はあるまいと里人を激励し、堤防を築き上げました。また、川原に壇を築いて、亡霊の供養と洪水のない平和な村になるよう、土砂加持をしました。7日目の満願の日に地蔵菩薩が空中に出現され、祈念成就を告げられました。大師は、この尊像を自ら刻まれ、お堂を建てて安置しました。−現在のものは、昭和二十九年(1954)の文部省の調査によって、鎌倉時代の作品と伝えられています。−もとの泰山寺は、裏山の金輪山に十坊の堂塔伽藍がそびえ、豪壮な寺院だったそうです。境内にある大師不忘松は、弘法大師が満願成就された時の記念として植えられたものといわれます。もとの木は、蒼社川の川岸にありましたが、後に現在の地に移したものだそうです。前代の松は三百年か四百年前のものとされ、写真のように立派なものでしたが、10年ほど前マツクイ虫のため枯死してしまいました。現在のものはその後植えられたものです。なお、泰山寺には、「南無阿弥陀仏・空海」と記した諸病加持のお礼が現存しています。これは、泰山寺中興の諦信上人−天保十三年(1842)〜明治十二年(1879)−が修験道に精進した霊感により発案したものではないかといわれます。「千枚通し」と言って、千枚を一組として刷るとききめがあるとされています。昔は、四国巡拝の時に薬を手に入れることがむずかしかったので、この札を水に入れて服用したそうです。また、泰山寺という寺の名は、延命地蔵経十大願の第一の「女人泰山」からきていると伝えられています。
 
所在地:今治市高橋
目次へ戻る


29.常高寺の由来
 昔、豊臣氏の時代に、河野姓浅海四郎能長の遠孫に加藤玄番頭常高とう人がいました。若い頃、秀吉、秀頼父子につかえ、勇猛な将士としてよく活躍しました。関が原の戦い、大阪の陣等の度重なる合戦に参加し、世の無情を痛感した常高は、武士の身分を捨てて、発心して剃髪し、了空法師と名のり、浄土真宗を修めました。何人かの気のあった一族郎等を引き連れて諸国を遍歴しましたが、主君のことはいつも脳裡から離れず、秀吉が守本尊としていた阿弥陀如来を手厚く祭りました。
 慶長年間(1596〜1614)に、この今治の地にやってきて石井の地に草庵を構えていましたが、その頃、丁度親友であった藤堂高虎が今治築城に際し、この今治にやってきていた関係で、その庇護を受けることになりました。常高は、早速風早町四丁目の現在の地をもらい、壮大な本堂を建て、寺の名も常高と言う名前をとって常高寺と定めました。−「じょうこうじ」と呼ぶ寺は浄興寺、浄光寺、などと書いて、かなり全国的に多く見られ、語呂は悪くないようです。−もちろん、御本尊は、秀吉の守本尊である阿弥陀如来ですが、これは聖徳太子の御作と称せられ、優秀なものと伝えられています。開基依頼350余年を経ましたが、その後、応急修理改築などをして今日に至っていますが、第二次世界大戦で周辺の建物が焼失しましたが、本堂は、御本尊のお陰で戦災を免れたと言うことです。
 
所在地:今治市風早町
目次へ戻る


30.満願寺の金比羅堂の由来
 慶長年間(1596〜1615)の昔、朝倉村の満願寺(真言宗)の近くの、ある所で突然、雷鳴のような轟音がたち、都合17日間も続き、人々を大変驚かせました。静まったと、後光のようなものがさすので、満願寺の僧侶がおそるおそる近づいてみると、金幣(金色のぬさ)がそこに置かれていました。僧侶は「金幣天降り給うなり」と伏して拝み、寺に持ち帰るとともに、これは金比羅大権現の加護によるものと鄭重にお祭りしました。
 その後何年かたったある日、山伏姿のあるお坊さんが寺を訪れ、「こちらの寺は金比羅大権現を崇拝している由、早速、その尊像を作らせてもらいたい。」と頼みました。満願寺の僧侶は、快く承諾しました。それから、坊さんは斎戒沐浴(心を清め体を洗うこと)、一心にのみをふるい、8日かかってこの仏像を完成しました。坊さんは「これは一刀三礼の作である。末長く祭っていたゞきたい。」と言って姿を消してしまいました。これが、不動金比羅吉祥寺の尊像だと言われています。
 なお、これから後、このお寺の院号を金寿院と改めたそうです。以来、霊験あらたかなものがあり、善男善女の信仰も多いそうです。
 なお、因みに言っておきますと、金比羅満願寺は、聖武天皇の天平年間(729〜749)の昔、道慈律師の開いたもので、その後、弘法大師が高野山開創後は、高野山直末として有名な僧侶が多く当たっています。また、霊仙山の城主、中川山城守の祈祷所になっており、江戸時代には、松山、今治両藩主の信仰も厚かったと言われ、地方有数のお寺になっています。建造物は、惜しくも天正十三年(1585)に秀吉の軍の霊仙山城の総攻撃に際し、災いを受け、ことごとく焼失してしまい、その後、中興再建され今日に至っています。
 
所在地:今治市朝倉下
目次へ戻る


31.石中寺の由来
 富士山をはじめ日本の高山は、たいてい役行社<えんのぎょうじゃ>(役小角<えんのおず>とも言います)が開拓したと言われています。また、その間に数々の仙術を披露しており、「日本霊異記」と言う書物には、孔雀王咒法と言うもので空を飛んだり、鬼神を駆役する等、種々の奇蹟を伝えています。
 ところで、四国霊峰と言われる石土山(瓶ヶ森とも言い、山岳愛好家は瓶の愛称で呼んでいます。)も役行者の開創によるものと言われています。
 この役行者が、全国行脚の途次、大宝元年(701)に清水の中寺の石中寺の不動院に寄られて、ここを根本道場として、孔雀明王、不動明王、愛染明王の法の功徳によって大誓願を行いました。すると、不思議なことに、空中から五色の雲が下り、楢原、石土、豊岡、象頭の四大権現が現れました。そこで、役行者は、石中寺の住職峰仙とともに、石土蔵王権現の彌山を決めるため、石中寺の東に向かって行き、高くて険しい山々を駆け巡り、草衣木食を以って難行苦行を積んだ末、石土山瓶ヶ森で、遂に尊い大権現の霊感に浴しました。早速この石土の地に安置申し上げるとともに、清水の石中寺にも本尊としていただいたと言うことです。このようなことがあって以来、石中寺がずっと、石土総本山として信仰されるようになりました。その後千有余年間、いろいろ時代による興亡はありましたが、近くの霊峰石鎚とともに、多くの信者を有し今日に及んでいます。
 特に、昭和のはじめに、清水の小笠原観念住職が中興に当たり、かなり規模の大きい壮大なお寺になり、更に、昭和二十二年(1947)天台宗寺門派より独立し、石土総本山石中寺として、全国的にその名を広めるまでに至りました。しかし、残念なことに、二十数年前経済的な面で思わしくないことがあり、建造物がこわされ、御本尊が他に移されています。
 
所在地:今治市中寺
目次へ戻る


32.三十三年に一度今治へ帰った仏像
 神宮の堂の元より約1キロほど奥に、堂が尾という深山があり、昔、ここに小さなお堂があって、善導大師(613〜681)という唐の高僧が作られた阿彌陀像が安置されていました。
 ある時、松山藩松平定直(今治藩主松平定時の長男で、延宝二年−1674−に松山藩松平定長の養子となり、定長の歿後、松山藩主となった人です。)が、阿方の堂の下のあたりを通っていた時、堂が尾の付近に霊光が輝いているのを見つけ、その光のもとを尋ね、阿彌陀如来像を拝したそうです。そこで、さっそく阿彌陀さんを松山の藩主の菩提寺である大林寺(浄土宗)へ移して、てい重にお祭りしました。また、ちょうどそのころ、延喜の乗禅寺の御本尊の如意輪観世音菩薩の霊験があらたかであるという説が広まり、松山の東野へ慈照堂を建立してお祭りすることになりました。
 ところが、その後、正徳五年(1715)に藩主定直は、両方の仏像とも、元のお寺へ帰りたいという夢のお告げをみました。如意輪観世音菩薩は、元々安置していた延喜の乗禅寺(真言宗)へ、帰ることになりましたが、阿彌陀如来像の方は、たえず南無阿彌陀仏と念仏を唱えてくれるならば、三十三年に一度、今治の方へ帰ったのでよろしいということでした。それで、それ以来、阿彌陀像は、三十三年に一度神宮の西明寺へお迎えする時には村人総出で、カネを鳴らし、念仏を唱えて盛大にお迎えしました。この阿彌陀さんは、残念なことに第二次世界大戦で松山市が空襲にあった際、焼失したということです。しかし、明治四十四年(1911)ごろ、町谷の仏師に依頼して昔の仏像と寸分違わぬ仏像を作り、現在も安置しているそうです。ところで、真偽のほどは別として、大林寺で戦災にあった仏像は、昔の仏像ではなく新しく作ったものであると言う説も一部にあります。
 いずれにしろ、元の仏像は、古い書物によると、福岡県福岡市の善導寺(浄土宗)、神奈川県鎌倉市の光明寺(浄土宗)の御本尊とともに、日本三体の一つにあげられるという説もあるほどで、かなり立派な仏像であったようです。
 
所在地:今治市神宮
目次へ戻る


33.海中出現の阿弥陀如来
 昔、弘法大師がこの地方にお出になられた時、瀬戸内海の海上の風波が激しい日が幾日も続き、海上を往来する人々を大変苦しめたことがありました。そこで、弘法大師は、瀬戸内海を眼下に見下すことの出来る八幡山の頂上を、御祈祷の場所とされ、海上の平穏をお祈りになりました。すると、不思議や、渦まき荒れ狂っていた海上のある一点から、五条の光が海一面に、目もまばゆいほどキラキラと輝き出しました。その光のさす中心点あたりへ、村人達がてんでに舟を漕ぎ寄せて近づいてみると、木彫りの阿弥陀様が浮かんでおりました。そこで、早速その仏像を持ち帰り、お堂を建立して御本尊様としてお納めしました。このお堂が現在四国八十八か所五十七番の札所になっている栄福寺(真言宗)(今治市玉川町八幡)です。この阿弥陀様は現存していますが、等身よりやや低い目で、一本造りになっていて、刻まれた衣のひだのあたりに潮がふいたあとらしいものが残っており、この仏像の縁起を物語っています。こういったところから、この阿弥陀様は別に「海中出現の阿弥陀如来」とか、「海中より御出現の仏像」と言われています。こうした相当古い、そして珍しいいわれを有している仏像だけに、相当歴史的に価値のあるものと考えられますが、残念なことに台座が完全ではないので、今のところ、余り高く評価されていないようです。
 
所在地:今治市玉川町
目次へ戻る


34.不思議な梵鐘と二大明王
 阿方にある四国八十八か所の延命寺(真言宗)は、行基菩薩が開いて後、嵯峨天皇の勅願によって、弘法大師が再会されたと言われておりますが、その昔は、今の延命寺より四キロほど北の近見山の山頂にありました。−現在の場所に移ったのは、享年十二年(1727)で、六度目の移転になります。その前は、少し離れた本村にありました。−近見山の山頂にお寺があった頃は、宝鐘院と言う七堂伽藍の荘厳なお寺でした。そして、寺の西の谷には、鐘撞堂があって、立派な貴金属でつくられた鐘があり、朝夕素晴しい音色を周囲に響かせていました。その後、五度の兵火と、一度失火があって、そのたびに場所がかわり、やっと、現在のところに落着いて今日に至っています。ところで戦国時代に、大分県の臼杵の大友の軍勢が乱入して、梵鐘と、不動明王、四大明王の二童子が持ち去られたことがありました。梵鐘は戦争の際に、相図に使っていましたが、夜がくると、決まって自然に「いぬる。いぬる」と鳴り出すので、後難を恐れた大友方は、舟に積んでもとの所へもどしにやってきました。−一説には、梵鐘を叩いた際に、「いぬる」「いぬる」と言う音色で鐘が鳴ったとも言われています。−ところが、どうしたはずみか、舟が自然に傾いて、梵鐘が海中深く没してしまいました。それでしばらくの間、お寺も梵鐘なしでしましていましたが、宝永年間(1704〜1710)に、新しく梵鐘が建立され今日に至っています。この宝永年間に出来た梵鐘についても、その後、松山藩が大砲をつくるために、お寺の鐘を徴収した際に、城の片隅に置いていたところ、自然に「いぬる」「いぬる」と鳴るので、送り返したと言うようにも言われています。この梵鐘には、寺の由来を刻んだ銘文があり、音響のよさとともに、この近郷では、相当立派な価値のある梵鐘の一つに数えられています。戦時中、文部省から文化財の調査に調査官が来る途中、空爆にあって立ち消え、そのまゝになってしまたのが、関係者には惜しまれています。
 また、一方大友方が、持ち帰った二つの明王を城中に安置して、護持を祈っておりましたところ、夜がくると奇光を放つので、近見山の谷に帰しました。ところが、不思議に、自然に山谷がひどく鳴動したり、怪しげな光が、天を衝くと言った状態が重なる始末、僧侶がこの二大明王を見つけて、本堂に還座したところ、奇異な現象がぴたりと止むようになったとか、そして、寺が火災に罹った時にもこの二大明王を祭っている本堂は、火災から免れたそうです。二大明王は、その後いたみがひどく、大部分は修理された様子ですが、現在も御本尊として祭られています。
 
所在地:今治市延喜
目次へ戻る